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黒田の家臣 寺田屋事件後、薩摩から見捨てられた志士達の150年法要 [史実]

 幕末に京都で起きた薩摩藩の内紛「寺田屋騒動」に絡み、薩摩への護送中に惨殺された志士3人が眠る日向市細島の陸繋島(りくけいとう)で4日、供養が始まって150年の記念祭が開かれた。3人の子孫らが初めて一堂に会し、地元の人たちと歴史に思いをはせた。(2012.5.5毎日jp)

 150年前の今日文久二年四月二十三日(1862.5.21)、薩摩藩士を中心とした尊攘過激派50数名は幕府と協調路線の関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃しようとしていた。しかし、伏見寺田屋にて上洛中の島津久光により説得、粛清された。

 投降した久留米藩真木和泉守、土佐藩吉村虎太郎ら藩籍を持つ者は各藩に引き渡され、薩摩藩士は船で国許に送還されることになった。浪人であった田中河内介、養子左馬介、甥の千葉郁太郎らも身柄を薩藩で預かることとなり、藩士らと同じ船に乗船した。理由は不明だが、筑前秋月藩士海賀宮門も同乗した。小藩ゆえ京阪に藩吏が来ていなかったからとする説もある。

 一行は日向細島港で船を降り、そこから陸路を鹿児島まで行く予定だと聞かされていた。しかし田中父子はその途上で斬られ、遺体は海に投げ捨てられた。目付役は河内介の同志である薩藩士に二人を斬るよう命じたという。彼らは当然これを拒否したが、藩命であると云われれば従わざるをえなかった。くじで特に河内介と親しくしていた柴山龍五郎が当たったが、苦渋している兄を見かねた弟是枝万助が代わりに父子を斬った。因果関係はわからないが、後に万助は気がふれ生涯を廃人で終えている。

 一方、千葉、中村、海賀三名は日向細島斬られている。田中父子殺害という薩藩の不信義に対して詰め寄ったためという説、また二人とは別の船に乗船していたためともいわれている。どちらにしても、秋月藩士である海賀を除く全員が最初から船中で殺害される予定であったことは間違いない。

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郡長正 会津の誇りだけは汚すことが出来なかった青年藩士を慰霊する [史実]

 ゴールデンウイークの5月1日、午前中は昨日の雨も上がり、薄日が差す穏やかな日和の中、みやこ町豊津の甲塚墓地で、会津藩士:郡長正の142回忌墓前供養祭が厳かに執り行われ、みやこ町井上町長はじめ行政関係者や豊津郷土史会会員の方々が列席し、墓前に焼香して故人の供養をしました。(2012.5.2 京築ナビ)

 明治四年五月一日、斗南藩から小笠原豊津藩校育徳館へ留学していた郡長正が自刃した。長正は会津戦争の責任を取って切腹した会津藩家老萱野権兵衛長修の子である。自刃の原因は不明だが、一説には寮内の食事が口に合わない事を書いた手紙を豊津藩子弟に見られたことによるとされている。一方でそれは後世の創作であるとする説もある。しかし、豊津や会津の伝承では定説として浸透してしまっているようだ。

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アンギアーリの戦い 不世出の天才ダ・ヴィンチとミケランジェロの共作、失われたフィレンツェ・ベッキオ宮殿の壁画を発見か? [topics]

 イタリア・フィレンツェで壁画を調査していた研究チームは12日、16世紀に失われていたレオナルド・ダビンチの作品「アンギアーリの戦い」とみられる壁画を、別のフレスコ画の下から発見したと発表した。(2012.3.13 CNN)

 1503年フランスのルイ12世はベネツィア共和国と同盟を結び、ミラノ公国を陥落させた。1482年以来ミラノにて「岩窟の聖母」「最後の晩餐」を完成させ、名声を手に入れることの出来たレオナルド・ダ・ヴィンチは故郷フィレンツェに戻り、その年市庁舎大会議室の壁画に1440年フィレンツェがミラノを破ったアンギアーリの戦いを描くよう共和国から依頼された。

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野崎主計正盛 江戸無血開城の一因と伝わる歌は自害した十津川郷士の辞世歌だった [人物]

 明治維新の先駆けとされる天誅組蜂起(1863年)。自刃した十津川郷士の辞世の歌が西郷隆盛を動かし、5年後の江戸城無血開城につながったという話が、「維新の魁・天誅組」保存伝承・推進協の機関誌で紹介されている。西郷を巡る“伝説”の一つのようだが、歌は確かに存在する。十津川の人々に受け継がれる高い志と郷土愛を示すエピソードだ。(2012.2.5毎日新聞)

 野崎主計は文政七年(1824年)、十津川郷川津村(現奈良県吉野郡十津川村大字川津)に生まれる。若年時病で床から起き上がることが出来なかったが、その間書物を通じて郷第一の世間通となり「川津のしりくさり」と呼ばれた。安政のはじめ、京で儒学者梅田雲浜をはじめ攘夷志士達との交友を深める。

 文久三年(1863年)八月二十日、大和国五条代官所を襲い倒幕挙兵した天誅組が十津川村に援軍を要請したのを機に、野村は長殿村で総裁吉村虎太郎に挙兵が義の戦いであることを確認し郷党を率いて参戦した。しかし、同月十八日の政変により天誅組はすでに賊徒とされており、事実を知るに及んで十津川郷士達は離脱した。主計は全ての責任を負い、九月二十四日故郷狸尾にて自害した。享年39歳。維新後、贈正五位。

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長沢鼎 13歳で国禁を犯し密航した薩摩スチューデントの日記が発見される [人物]

 いちき串木野市の羽島から幕末の1865年、薩摩藩英国留学生として密航し、アメリカでワイン醸造会社の経営に成功した長沢鼎〔かなえ〕(1852~1934年)の雑記帳と日記がカリフォルニア州で見つかった。(2012.1.15南日本新聞

 長澤鼎(1852-1934)は薩摩藩天文方の家に生まれ、藩校開成所で優秀な成績を修めたことで元治二年(1865年)の薩摩藩英国留学生に最年少の13歳で選抜された。英国での修学を経て1867年に同留学生吉田巳ニ(清成)、鮫島誠蔵(尚信)、森金之丞(有礼)、松村淳蔵、畠山丈之助(義成)らと共に米国人伝道師トマス・レーク・ハリスの下へ旅立った。

 彼らは藩命によって送り出されたとはいえ、当時の国禁を破っての渡航だったため全員が変名を使っての留学であった。長澤も磯永彦輔が本名であるが、二度とその名を使うことはなく留学生で唯一人故国の地を再び踏むこともなかった。

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宮城縣郷土かるた 震災復興と戦災復興、かさなる願いを込めて半世紀ぶりに復刻 [topics]

 山形ゆかりの兄弟が1949(昭和24)年に制作した「宮城県郷土かるた」が半世紀以上の時を経て復刻された。敗戦からの復興途上にあった宮城県の姿を兄が詠み、弟が描いた合作かるた。東日本大震災で大きな打撃を受け、再生への道を歩み出した現在の宮城に重なる読み札もあり、「被災地に贈りたい」とまとめて購入するケースもあるという。(2011.12.31山形新聞)

 「郷土カルタ」は当地の伝統、自然、歴史、偉人、行事、産業といった様々な特色を詠み込んだもので、いわゆる「いろはカルタ」や「百人一首」などとは少々趣の異なるものである。平成13年に確認されたものでも、全国に535種類近くあるというのは驚きだ。中でも群馬県127種、埼玉県101種は全体の約3割を占め、大会も盛んに行われている。(1)

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田原坂 日本内戦史上最大の激戦地で想いを馳せる [古戦場]

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田原坂ノ北タルヤ。外昴ク内低ク、恰モ凹字形ヲ成シ、坂勢峻急、加ウルニ一陟一降ノ曲折ヲ以テシ、茂樹灌木之ヲ蔽ヒ鬱蒼トシテ昼暗ク、洵ニ天険ト為ス」 参謀本部編纂『征西戦記稿』より

 明治十年(1877年)ニ月ニ十五日から高瀬(現熊本県玉名市高瀬)において、薩摩軍と征伐軍が菊池川を挟んで三度の激戦を繰り広げた。西南戦争中、両軍主力が積極果敢に攻勢に出た最初で最後の野戦、いわゆる高瀬会戦である。数に劣る薩軍であったが、それを上まわる士気で一進一退の攻防を演じたものの、幾つかの不幸な出来事により撤退を余儀なくされた。(1)

 高瀬での戦闘後、征伐軍は兵力を集中させるために数日を使った。その間、薩軍にも北は味取山から田原、吉次を越え有明海に至る強力な南北の防衛線を構築する時間を与えてしまっている。征伐軍主力は当時大砲を移動出来る唯一の田原坂を進み、支隊は吉次峠を、三月四日より本格的な攻撃を開始した。この方面での戦闘は薩軍が防御線を解く四月十五日まで、両軍合わせて4000名以上の死傷者を出してしまい、中でもわずか80m高低の丘陵地田原坂は日本戦史史上最大の激戦地となってしまった。

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茅野和助常成 もと咲く野辺に枯れる覚悟をこめた自筆の遺書が発見される   [topics]

 忠臣蔵で知られる赤穂浪士四十七士の1人で岡山県津山市出身の茅野和助(1667~1703)が、討ち入り直前に書いた自筆の遺書とみられる手紙が、津山市内で見つかった。(2011.12.12YomiuriOnline)

 茅野常成は寛文七年(1667年)の生まれ、美作国津山藩森家に仕えていたが、同家が跡目相続を巡る問題で改易となったため、隣国の赤穂浅野家に再仕官した。禄高は五両三人扶持、役柄は横目付であった。しかし、仕官してわずか4年で、浅野家に降りかかった凶事により、再び浪人の身となる。赤穂藩では新参であったが、和助常成は最初から義盟に参加している。

 元禄十五年(1703年)十ニ月十四日の吉良邸討入りに際しては、大石主税の裏門組に属し、屋外で千馬三郎兵衛、間新六らと共に弓で応戦している。

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加藤有隣 幕末の動乱に身を投じる切欠となった高杉晋作との出会い [人物]

 明治維新で長州藩士らとともに活躍した笠間出身の儒学者、加藤桜老(おうろう)(1811~84年)の生誕200年記念展が笠間公民館(笠間市石井)で開かれている。12月20日まで。戦前は市内に銅像があり、維新の功績をたたえていたが、戦後は忘れ去られていた人物。市史編纂(へんさん)作業の中で地元の偉人として再評価する機運が生まれ、再び脚光を浴びようとしている。(2011.11.27 MSNニュース)

 加藤有隣(名は煕『ひろし』。字は伯敬。別号に榊『しんいん』。)は文化八年七月ニ十八日、水戸藩士佐藤政祥の子として生まれる。7歳の時、外祖父である笠間藩士加藤忽蔵の養子となる。若くして学識高く、19歳で水戸藩の会沢正志斎、藤田東湖から水戸学を、江戸の昌平黌で学びながら、平田篤胤からは儒学、神道、更には雅楽、兵学、砲術を学んでいる。こうした豊富な知識と見識を用い笠間藩の藩政改革を実行しようとしたものの挫折、40歳で隠居の身となった。

 隠居後の安政三年(1856年)、三方に筑波、葦穂、我国、翠屏、柊、鯨、載圖、偃莖、加波、夏屋、比聖、南臺、餘波の山々が見渡せる御旗前(現茨城県笠間市笠間字御旗前)に十三山書楼と名づけた隠居所を建て、1階では私塾を開き、2階の書斎では国事を討論した。日本中から集まってきた志士達と交流の最中、長州藩士高杉晋作が有隣を訪れたのは、万延元年(1860年)九月三日朝だったという。

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宇和島さんさ 仙台藩への意地と伊達侍の心意気から生まれた民謡を後世に [史実]

 宇和島市の伝統芸能「宇和島さんさ踊り」を後世につなごうと、継承者育成講座が19日、同市住吉町1丁目の市総合福祉センターで始まった。宇和島さんさ普及会の宮川和扇会長(82)が、公募市民25人に礼法や足さばき、手の使い方などを丁寧に伝授した。 (2011.10.20愛媛新聞

 宇和島藩初代藩主伊達秀宗公は仙台藩祖政宗公と側室の間に生まれた長男であったが、時の天下人豊臣秀吉の猶子として幼少を過ごしたこともあり、徳川政権時に伊予宇和島十万石を仙台伊達家の支藩ではなく、国持大名として起こすこととなった。しかし、仙台藩ではことあるごとく、宇和島藩を見下す扱いをしていたようで揉め事が絶えなかったという。

 第五代藩主伊達村候(むらとき)公は、享保の大飢饉(1732年)の際に藩政改革を実行し、領民を救済した藩中興の祖とされている人物である。ところが、その治世の最中、仙台藩とのトラブルはついに表面化し、寛延二年(1749年)幕府が調停に乗り出すこととなった。

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