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長沢鼎 13歳で国禁を犯し密航した薩摩スチューデントの日記が発見される [人物]

 いちき串木野市の羽島から幕末の1865年、薩摩藩英国留学生として密航し、アメリカでワイン醸造会社の経営に成功した長沢鼎〔かなえ〕(1852~1934年)の雑記帳と日記がカリフォルニア州で見つかった。(2012.1.15南日本新聞

 長澤鼎(1852-1934)は薩摩藩天文方の家に生まれ、藩校開成所で優秀な成績を修めたことで元治二年(1865年)の薩摩藩英国留学生に最年少の13歳で選抜された。英国での修学を経て1867年に同留学生吉田巳ニ(清成)、鮫島誠蔵(尚信)、森金之丞(有礼)、松村淳蔵、畠山丈之助(義成)らと共に米国人伝道師トマス・レーク・ハリスの下へ旅立った。

 彼らは藩命によって送り出されたとはいえ、当時の国禁を破っての渡航だったため全員が変名を使っての留学であった。長澤も磯永彦輔が本名であるが、二度とその名を使うことはなく留学生で唯一人故国の地を再び踏むこともなかった。

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宮城縣郷土かるた 震災復興と戦災復興、かさなる願いを込めて半世紀ぶりに復刻 [topics]

 山形ゆかりの兄弟が1949(昭和24)年に制作した「宮城県郷土かるた」が半世紀以上の時を経て復刻された。敗戦からの復興途上にあった宮城県の姿を兄が詠み、弟が描いた合作かるた。東日本大震災で大きな打撃を受け、再生への道を歩み出した現在の宮城に重なる読み札もあり、「被災地に贈りたい」とまとめて購入するケースもあるという。(2011.12.31山形新聞)

 「郷土カルタ」は当地の伝統、自然、歴史、偉人、行事、産業といった様々な特色を詠み込んだもので、いわゆる「いろはカルタ」や「百人一首」などとは少々趣の異なるものである。平成13年に確認されたものでも、全国に535種類近くあるというのは驚きだ。中でも群馬県127種、埼玉県101種は全体の約3割を占め、大会も盛んに行われている。(1)

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田原坂 日本内戦史上最大の激戦地で想いを馳せる [古戦場]

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田原坂ノ北タルヤ。外昴ク内低ク、恰モ凹字形ヲ成シ、坂勢峻急、加ウルニ一陟一降ノ曲折ヲ以テシ、茂樹灌木之ヲ蔽ヒ鬱蒼トシテ昼暗ク、洵ニ天険ト為ス」 参謀本部編纂『征西戦記稿』より

 明治十年(1877年)ニ月ニ十五日から高瀬(現熊本県玉名市高瀬)において、薩摩軍と征伐軍が菊池川を挟んで三度の激戦を繰り広げた。西南戦争中、両軍主力が積極果敢に攻勢に出た最初で最後の野戦、いわゆる高瀬会戦である。数に劣る薩軍であったが、それを上まわる士気で一進一退の攻防を演じたものの、幾つかの不幸な出来事により撤退を余儀なくされた。(1)

 高瀬での戦闘後、征伐軍は兵力を集中させるために数日を使った。その間、薩軍にも北は味取山から田原、吉次を越え有明海に至る強力な南北の防衛線を構築する時間を与えてしまっている。征伐軍主力は当時大砲を移動出来る唯一の田原坂を進み、支隊は吉次峠を、三月四日より本格的な攻撃を開始した。この方面での戦闘は薩軍が防御線を解く四月十五日まで、両軍合わせて4000名以上の死傷者を出してしまい、中でもわずか80m高低の丘陵地田原坂は日本戦史史上最大の激戦地となってしまった。

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茅野和助常成 もと咲く野辺に枯れる覚悟をこめた自筆の遺書が発見される   [topics]

 忠臣蔵で知られる赤穂浪士四十七士の1人で岡山県津山市出身の茅野和助(1667~1703)が、討ち入り直前に書いた自筆の遺書とみられる手紙が、津山市内で見つかった。(2011.12.12YomiuriOnline)

 茅野常成は寛文七年(1667年)の生まれ、美作国津山藩森家に仕えていたが、同家が跡目相続を巡る問題で改易となったため、隣国の赤穂浅野家に再仕官した。禄高は五両三人扶持、役柄は横目付であった。しかし、仕官してわずか4年で、浅野家に降りかかった凶事により、再び浪人の身となる。赤穂藩では新参であったが、和助常成は最初から義盟に参加している。

 元禄十五年(1703年)十ニ月十四日の吉良邸討入りに際しては、大石主税の裏門組に属し、屋外で千馬三郎兵衛、間新六らと共に弓で応戦している。

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加藤有隣 幕末の動乱に身を投じる切欠となった高杉晋作との出会い [人物]

 明治維新で長州藩士らとともに活躍した笠間出身の儒学者、加藤桜老(おうろう)(1811~84年)の生誕200年記念展が笠間公民館(笠間市石井)で開かれている。12月20日まで。戦前は市内に銅像があり、維新の功績をたたえていたが、戦後は忘れ去られていた人物。市史編纂(へんさん)作業の中で地元の偉人として再評価する機運が生まれ、再び脚光を浴びようとしている。(2011.11.27 MSNニュース)

 加藤有隣(名は煕『ひろし』。字は伯敬。別号に榊『しんいん』。)は文化八年七月ニ十八日、水戸藩士佐藤政祥の子として生まれる。7歳の時、外祖父である笠間藩士加藤忽蔵の養子となる。若くして学識高く、19歳で水戸藩の会沢正志斎、藤田東湖から水戸学を、江戸の昌平黌で学びながら、平田篤胤からは儒学、神道、更には雅楽、兵学、砲術を学んでいる。こうした豊富な知識と見識を用い笠間藩の藩政改革を実行しようとしたものの挫折、40歳で隠居の身となった。

 隠居後の安政三年(1856年)、三方に筑波、葦穂、我国、翠屏、柊、鯨、載圖、偃莖、加波、夏屋、比聖、南臺、餘波の山々が見渡せる御旗前(現茨城県笠間市笠間字御旗前)に十三山書楼と名づけた隠居所を建て、1階では私塾を開き、2階の書斎では国事を討論した。日本中から集まってきた志士達と交流の最中、長州藩士高杉晋作が有隣を訪れたのは、万延元年(1860年)九月三日朝だったという。

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宇和島さんさ 仙台藩への意地と伊達侍の心意気から生まれた民謡を後世に [史実]

 宇和島市の伝統芸能「宇和島さんさ踊り」を後世につなごうと、継承者育成講座が19日、同市住吉町1丁目の市総合福祉センターで始まった。宇和島さんさ普及会の宮川和扇会長(82)が、公募市民25人に礼法や足さばき、手の使い方などを丁寧に伝授した。 (2011.10.20愛媛新聞

 宇和島藩初代藩主伊達秀宗公は仙台藩祖政宗公と側室の間に生まれた長男であったが、時の天下人豊臣秀吉の猶子として幼少を過ごしたこともあり、徳川政権時に伊予宇和島十万石を仙台伊達家の支藩ではなく、国持大名として起こすこととなった。しかし、仙台藩ではことあるごとく、宇和島藩を見下す扱いをしていたようで揉め事が絶えなかったという。

 第五代藩主伊達村候(むらとき)公は、享保の大飢饉(1732年)の際に藩政改革を実行し、領民を救済した藩中興の祖とされている人物である。ところが、その治世の最中、仙台藩とのトラブルはついに表面化し、寛延二年(1749年)幕府が調停に乗り出すこととなった。

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新選組平同士 松本喜次郎 「誠」の旗の下に集いし男達の誇りを胸に、死へ赴いた隊士に捧ぐ [人物]

 郡山市の大日本武徳会新誠舘の塾生5人は11日、同市湖南町の正福寺で新撰組隊士松本喜次郎慰霊・居合抜刀道奉納演舞を行い、松本喜次郎の遺徳をしのんだ。(2011.10.14福島民友)

 和泉国岸和田藩で弘化三年(1846年)生まれの松本喜次郎が新選組に入隊したのは、文久三年八月十八日の政変前後であったと云われる。元治元年(1864年)の行軍録には井上源三郎の三番隊に属したことが記され、同年の池田屋騒動に際しては、出動隊士として褒賞金十五両を賜ったことも記録に残っている。

 鳥羽伏見の戦いを経た慶応四年(1868年)、甲州勝沼の戦いの後永倉新八らと共に近藤勇と袂を分かち、新選組とは別に戊辰戦争に参じた。しかし、同年八月十七日会津戦争による戦傷がもとで、猪苗代湖南三代の正福寺(現福島県郡山市湖南町三代)にて死亡し、同寺に葬られた。墓石には「喜見道清居士/新選組士松本喜次郎二十三歳/慶応四戊辰年八月十七日没」と刻まれている。

 松本の死に関して不可解なことは、大抵の歴史家達が新選組に復隊していたとする点である。確かに、戊辰の役を生き抜いた隊士達が後世に残した記録の中で松本は、「会津三代ニ而戦死」(中島登覚書)、「会津ニテ死ス」(横倉甚五郎新選組隊士名簿)、慶応三年から島田魁が作成した名簿録の中では蝦夷へ渡航せず戦死と、いずれも新選組隊士としての戦死扱いとなっていることからも明らかである。だが、戦傷を負ったとされる慶応四年閏四月からの白河口の戦いにおいて、山口ニ郎が率いた新選組の会津藩に提出された編成表の中に松本の名前は見当たらない。

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楢崎頼三 白虎隊士飯沼貞吉を養育した長州藩士に新証言 [topics]

 幕末の戊辰戦争で自決した会津藩の白虎隊で唯一生き残った飯沼貞吉(さだきち)の孫にあたる一元(かずもと)さん(68)=東京都=が18日、貞吉を養育したとされる長州藩士の子孫松葉玲子さん(76)=同=と京都市内で初対面した。敵同士の許されざる支援にあたるためか史料がないというが、対面で松葉さんが「祖母から話を聞いた」と証言し、一元さんは「養育を裏付ける一級の証拠」と感無量の様子だった。(2011.9.18京都新聞)

 長州藩士楢崎頼三は、戊辰戦争において東山道先鋒軍中隊長として各地を転戦した。会津戦争の若松城陥落後には、奥州諸藩の捕虜460余名を東京へ護送する役目も担っている。

 頼三の給領地、長州小杉(現山口県美弥市)では、地元に古くから言伝えられる以下のような逸話が残されている。明治元年12月雪の降る寒い日、頼三は小杉に帰郷した。この時、乗馬する馬の轡を取る十五、六の少年を連れていた。少年は会津出身で、自分が書生として面倒をみるつもりだと、出迎えた者達に話したとされる。更に頼三は、少年のことを「サダさあ(さん)」と呼んでいたという。

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女たちの伊達騒動 [史跡]

 仙台駅西口五橋1丁目交差点からJR高架下を抜け、仙塩地区産業道路に繋がる新寺通りと交差する宮沢根白石線の界隈、いわゆる新寺小路は藩政時代から寺社が多く集まる場所です。藩祖政宗公が慶長六年(1601)に仙台城城下町割りに際し、東の守り(鬼門)としてこの地区に幾つかの寺院を配置し、更に寛永十四年(1637)に始まった第1次城下拡張によって、当時寺町であった寺小路から一部の寺院が移されて来ました。以降、二つの寺町は元寺小路、新寺小路と呼ばれるようになったわけです。(1)

 JR仙石線で一つ目の榴ヶ岡駅を降りると、中心街の喧騒さが信じられない静かな佇まいを見せてくれます。交通の利便性もあり、気軽に行き来が出来る新寺小路を、伊達騒動関連の史跡を中心に歴史散策してみました。

 駅から仙台サンプラザの前を南へ歩くと政岡墓所があります。この墓所には政岡のモデルとされる仙台藩三代藩主伊達綱宗公の正室三沢初子、二代藩主忠宗公正室振姫、四代藩主綱村公正室仙姫の三人の墓があります。 (2)

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 政岡というのは、歌舞伎「伽羅先代萩」に登場する亀千代丸の乳母のことです。伊達騒動の名が世間に広く知れ渡ったのは、この芝居と小説、大河ドラマ「樅ノ木は残った」というフィクションであったことは云うまでもありません。詳しいことは後日機会があれば書くつもりですが、政岡は近年の研究では三沢初子がモデルではなく、あくまで創作された人物であったろうとされています。にもかかわらず、現在も歴とした仙台藩藩主正室の墓所をフィクションのキャラクターの名前で案内しているところが、この史跡の面白いところだと思います。(3)

 墓所の向かいには案内所があり、ここで墓を管理している孝勝寺住持から説明を聞くことも出来るそうなのです。今回もそうでしたが、私が訪ねる時は休日に当たっていてこの件に関して質問できずにいます。ですが、一般に浸透している政岡の墓とすることで、この墓所を案内しやすかったであろうことは容易に想像できます。なお、普段は扉が閉まっているので見学出来ませんが、隣接する公園から中の様子を見ることは可能です。

 政岡墓所を後にし西へ歩きますと、上記した宮沢根白石線の大通りがあり、この向い側にある日蓮宗東北本山孝勝寺へと向います。孝勝寺の名は振姫の法号「孝勝院殿秀岸日訊大姉」からきているとおり、藩主正室の帰依により、当時大いに 隆盛を誇ったようです。仙台城城下絵図などを見ますと、現在よりも遥かに広大な寺域を有していたことが判ります。政岡墓所もそうですが、現在の仙台サンプラザまでも含める広さだったのです。

 この孝勝寺には、綱村公が生母三沢初子の死後、元禄八年(1695)に建立した釈迦堂が現存しています。元はこの場所ではなく宮城野の榴ヶ岡に建立されたのですが、昭和四十八年に宮城県図書館の建設に伴い移設されたものであります。綱村公が母の護持仏であった釈迦像を安置し、その功徳を領民にも及ぼそうとしたのがそもそもの経緯でありましたが、その隣接地には多くの枝垂桜を植え、芝居の興行を許可し、領民憩いの場としても提供したのです。これが現在の榴ヶ岡公園発祥の地となったわけです。

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 孝勝寺の釈迦堂の前には亀千代丸を抱く三沢初子の像があります。私は政岡のモデルが三沢初子ではないと書きましたが、この像を見ていると、政岡が実子千松を犠牲にしてまで、忠義と情愛で亀千代丸を守った場面と重なるものを感じます。生涯に渡り生母の愛を深く受け止めた綱村公は、初子の弟信濃宗直を一門に列し、竹に雀の伊達家家紋の使用を許し、これに報いています。(4)

(1)仙台藩の当時、元寺小路は現在の勾当台公園から広瀬通を経て鉄砲町に至る城下随一の幹線道路でした。定禅寺通や光禅寺通、花京院など、今使われている地名は当時同名の寺院がこの界隈にあったことに由来しています。

(2)忠宗公が三沢初子を綱宗公の側室とすることを、叔母であり振姫の老女紀伊に相談したところ、初子が名家の出身(父三沢権佐清長は美濃大垣城城主氏家志摩守広定の養子となり、関ヶ原の役後、流浪した)を理由に、正室としてならば婚姻を謹んでお受けすると答えた。忠宗公はこれを承知し、明暦元年(1655)正月、二人を結婚させた。しかし、公は幕府へは正規の結婚としては届けなかった。これは、将来の仙台伊達藩主正室としては初子の素性がふさわしくなかった事と、綱宗公が当時まだ未成年であったことが理由だとされている。だが、綱宗公は正室を娶ることなく、隠居してしまったので、初子は事実上の正室と認識されている。

(3)東京都目黒区正覚寺にも三沢初子の墓があります。この境内に、政岡を演じた尾上梅朝をモデルにした三沢初子の銅像があります。少々ややこしい感じもしますが、やはり政岡と三沢初子は、切っても切れない縁のようです。

(4)以前にも書きましたが、孝勝寺の山門は仙台城より拝領されたという言い伝えがあります。実に見事な山門で一見の価値はあります。なお、この寺域には参拝以外の出入りを禁ずる案内が出ています。写真撮影など、見学を希望する際は一言声を掛けてからが望ましいと思います。

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伊達の黒箱 寛文事件の公文書が仙台市博物館企画展に展示 [topics]

 大正10年に大槻文彦の『伊達騒動実録』を否定し、原田甲斐忠臣説を世に問うた『先代萩の真相』が岩手県磐井郡出身の田辺実明によって著された。この『先代萩の真相』(以下『真相』)は、『伊達騒動実録』(以下『実録』)を読んだ田辺が、その膨大な史料の解釈に異論を持ったことが、書かれた動機であったという。すなわち、『真相』は『実録』の史料を前提にして書かれている点、またその内容と量から見て、伊達騒動第一の研究書である『実録』に相対する書として位置付けられるものといえる。

 『真相』が書かれたもう一つの動機をつくったのが、幕末の仙台藩若年寄から仙台藩大参事になった増田繁幸に聞かされた以下の話であったという。「明治4年頃、増田は伊達家が代々厳重に保管してきた黒塗りの箱に収められた文書を点検する機会があった。文書の中身は寛文事件の秘文書で、これまでの通説を真っ向から覆すものであった。それは、伊達安芸が伊達式部との谷地境界争いに敗れた恨みから、幕府に提訴を企て、その実現の手段として兵部・甲斐らに対する非難・流言を利用したとあり、審問に召還された甲斐は、安芸の行為に憤激のあまり刀を抜くに至ったという内容であった。」

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