So-net無料ブログ作成

真田幸村の墓 [史跡]

 平成7年(1995)の毎日新聞日曜版に楠戸義昭氏が連載していた「戦国女系譜」の中で大阪夏の陣で戦死した真田左衛門佐信繁(幸村)のお墓(供養碑)が宮城県白石市に遺されてるとあり、私は驚いたものです。

 何故陸奥の白石にお墓があるのか。そして、ぜひ訪れてみたいと思うようになりました。

 真田信繁といえば夏の陣の際、決死の突撃で徳川家康の本陣まで攻込み、旗本勢を蹴散らしながらも力尽きましたが、その勇猛さから真田日本一の兵とまで呼ばれるようになった事で有名です。

 ですが、嫡男大助も豊臣秀頼と共に自害した為その血統は絶えたかのように思われがちです。

 しかし、事実は夏の陣決戦前夜に信繁の依頼で伊達政宗の重臣片倉重綱(後の重長)に次男大八と3人の娘子を託した事は知られています。

 3人の娘子の一人阿梅は後に重長の後妻となり白石城下に集まってきた真田の遺臣をまとめたと言われています。

 又、大八は徳川家の捜査が伊達藩に及んだ際、すでに死亡したという嘘の報告により保護されました。そして、片倉家の家臣となり、ここに仙台真田家の祖が誕生し、明治維新まで脈絡と続く事になるわけです。

 さて、実際にその信繁のお墓を探しに行った処。(まさしく探しに行ったという表現は的を得ていたと思います。)

 東北新幹線の白石駅から西に白石城が見えます。そこから更に七ヶ宿街道を西に行った途中に片倉家代々の廟所があり、更に道なりに行くと小さな畑が左側に見えるのですが、そこに田村清顕公のお墓という案内板が出ていたと記憶しています。

 田村清顕は伊達政宗の正室愛姫の実父であります。しかし、清顕公亡き後小田原攻めに参加しなかった事を理由に田村氏は豊臣秀吉により所領を没収されてしまいます。そのため、愛姫の請願により跡継ぎの定弘を片倉重長の家来にし白石に定住させました。その定弘に嫁いだのが信繁の3人の娘子の一人阿菖蒲だったわけです。

 互いの家が没落したという二人が夫婦になったというのはちょっと不思議な縁でありますね。そして、定弘によって田村清顕、真田信繁のお墓が白石に建立されたという経緯があるのです。

 お墓までは歩いて草深い山の中の畑道を、藪から蛇がいつ飛び出してくるかと思いながら歩かねばなりませんでした。しかも日没の早い冬の最中だった事から、辺りは暗くなりかけていましたし。こんな処にお墓が本当にあるのかなと思ってましたら、又小さな案内板があり、雑木林の中にお目当ての墓所がありました。

 中央に田村清顕公のお墓があり、その周りに定弘や阿菖蒲のお墓。そして、その後ろに小さく信繁のお墓があります。

 人目につかないような場所にはありますが、清顕公のお墓を中心に寄り添うように建てられてるその墓所には、どこか家族団欒という雰囲気が伝わってきます。

 田村氏にしろ真田氏にしろ再興はしましたが、一度は没落の憂い目にあいました。しかし、当時の人達の『名跡は決して絶やさない。』という強い思いがあったればこそ、こうしてこの墓所で一族が一緒に眠る事が出来るわけです。(田村氏の名跡を継いだのは愛姫の遺言により二代藩主伊達忠宗の3男宗良であります。)

 そんな思いが伝わってきたのか、私は戦では敗者になった信繁も、ここでは家族に囲まれ安らかな時間を過ごしているんだろうなぁという思いになれました。

 冬だったので、蛇が藪から出てくるわけないと気づいたのはかなり時間が経った後でした。それでも墓所まで辿りつけて本当に良かったと思いました。

補 サイト等で調べると、現在の田村清顕公の墓所は私が訪れた頃より整備されているようです。藪を掻き分けて探すような必要はないと思われます。

 

 

白石城


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 2

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0