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直峰城 「天地人」効果で観光客に静かなブーム [史跡]

大河ドラマ「天地人」の人気により、直江山城守兼続の父、樋口惣右衛門兼豊が城代を勤めた直峰(のうみね)城址に全国から観光客が訪れ、地元の人を驚かせている。(2009.5.10信濃毎日新聞)

天正6年(1576)御館の乱で、上杉景勝は上杉影虎側についた直峰城を寝返らせ、城主長尾景明を自刃に追い込んだ。これにより、分断されていた景勝の地元であり兼続の父樋口惣右衛門が在陣していた坂戸城と春日山城のルートを確保することが出来、同時に影虎が頼みとしていた実家北条家の越後領内への侵入を阻むことも可能になったのです。すなわち、御館の乱の勝敗の帰趨は、一つにこの直峰城をどちらが手中に収めるかで決まったともいえるのではないでしょうか。

上杉憲政から関東管領職を継いだ謙信(当時は長尾影虎)は関東への出兵に際し、まず軍道の確保から始めました。当時の春日山城から三国峠への行程は、現在の地名でいうと上越市から日本海に沿って北上し柏崎市へ。そこから南下し小千谷市へ。そして、国道17号沿いに魚沼市、湯沢町、三国峠という約140kmの距離で6日間も費やすものでした。これを謙信は春日山城と三国峠を直線で結ぶ上杉軍道の整備に着手します。これが上記した春日山城~直峰城~坂戸城周辺(樺野沢城、荒戸城)~三国峠のルートなのです。この軍道を使用することで行程100km、4日間で三国峠に至ることが可能になったのです。直峰城はこの関東出兵の初日の宿泊地に当たっていたのです。

樋口惣右衛門兼豊は御館の乱の功績により、天正12年(1583)に直峰城城代に任命されています。直峰城は上杉氏が会津へ転封した後、入府した堀氏の重臣が城主となりましたが、慶長15年(1610)に堀氏が改易された際、廃城となりました。現在の城址の山麓裏手には上杉軍が実際使用した軍道が現在も残っています。ここを毘沙門天の旗をなびかせ、疾風の如く関東へ出陣した謙信を想像するのも楽しみの一つであります。


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