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アンギアーリの戦い 不世出の天才ダ・ヴィンチとミケランジェロの共作、失われたフィレンツェ・ベッキオ宮殿の壁画を発見か? [topics]

 イタリア・フィレンツェで壁画を調査していた研究チームは12日、16世紀に失われていたレオナルド・ダビンチの作品「アンギアーリの戦い」とみられる壁画を、別のフレスコ画の下から発見したと発表した。(2012.3.13 CNN)

 1503年フランスのルイ12世はベネツィア共和国と同盟を結び、ミラノ公国を陥落させた。1482年以来ミラノにて「岩窟の聖母」「最後の晩餐」を完成させ、名声を手に入れることの出来たレオナルド・ダ・ヴィンチは故郷フィレンツェに戻り、その年市庁舎大会議室の壁画に1440年フィレンツェがミラノを破ったアンギアーリの戦いを描くよう共和国から依頼された。

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『ルーブル美術館に所蔵されているルーベンスの模写「アンギアーリの戦い」。イタリア・トスナーナ地方アンギアーリの橋を巡る攻防を描いている。』

 レオナルドの伝記をはじめて書いたアノニモ・ガッディアーノは「アンギアーリの戦い」は画稿を壁画に移す段階で画面の乾燥に失敗したため、下部の画は乾いたが上部は流れ落ちてしまったと書いています。この画は1557年にヴァザーリが塗りつぶしてしまうまでの間放置されていたようで、ラファエロをはじめ数人のアーティストによる模写が残されています。細かな部分が異なるものの、構図が同じことから絵具が流れ落ちなかった下の部分であると考えられています。

 『私が最初の一筆でおろそうとした時、悪天候となり、人々を集めるための鐘が鳴りはじめた。画稿は破れ、水が流れ、集めておいた水甕は壊れた。』(1)

 準備段階では絵具の乾燥に成功していたのですが、庁舎の壁の漆喰が絵具を吸収出来なかったのが失敗の原因とされています。しかし、レオナルドは自らの手法に誤りはなく、未完成で終わることは最初からこの画の運命であったと手記に残しています。

 話は前後しますが、当時レオナルドは壁画制作だけでなく、同じ市庁から依頼されたアルノ河水路の工事や「モナ・リザ」の制作を同時進行させていて、中でも彼の頭を常に支配していたのが空飛ぶ翼、すなわちグライダーの製作だったといわれています。エンジニアとしての技量をフィレンツェ当局も認めていたため、壁画の進捗が遅れるのもある程度は覚悟していたようです。しかし、レオナルドが壁画にようやく着手したのは、1505年2月までに完成させる契約期限を過ぎた4月末でした。レオナルドの遅筆を覚悟していたとはいえ、完成に危惧を抱いた市政長官ソデリーニは1504年6月に市庁舎正面玄関に設置された「ダヴィデ」像を完成させたミケランジェロ・ブオナローティに同年8月同じ大会議室に壁画制作を依頼したのです。

 ミケランジェロの伝記も書いたヴァザーリはソデリーニが二人を競わせるために、ミケランジェロにも後から仕事を依頼したと記しています。残念なことに二人の天才が生涯に一度だけ共に手をかけたこのプロジェクトに関しては手紙と手記、デッサンと模写というように断片的な資料しか残されていません。それゆえ、全体像が判らないというのが現状です。ここで問題になるのが二人を競わせたという点です。現存するヴェッキオ宮殿五百人会議室はヴァザーリが1557年に改築したもので、それまでのものより天井が7m近く高いとされています。また、南北の壁には窓があったため壁画を書くことが出来なかったというのが通説です。

 では二人が競い合って壁画に着手したのなら、東西の壁にそれぞれ描いたのであろうか?ミケランジェロが描いた題材はレオナルド同様に政治的なもので、フィレンツェがピサに対して勝利を収めた「カッシーナの戦い」でした。残されている模写が画の全体図なのか、それとも一部だけなのかはわかっていません。「アンギアーリの戦い」は数十年残されましたが、こちらは1512年に彫刻家バンディネッリによってバラバラにされてしまったのです。おそらく、その詳細は永遠に解明することはないかもしれません。ですが、この模写を見る限りミケランジェロがレオナルドと競い合ったというのは腑に落ちません。壁画への作業は遅れてたでしょうが、ミケランジェロは後から仕事を請け負ったわけですからレオナルドの画稿を確認してから作業をはじめたのは間違いないでしょう。

 つまり、ミケランジェロは戦争絵画であるにもかかわらず、その題材に「アンギアーリの戦い」のような戦闘場面を描くことはしなかったということです。彼のバランス感覚がそうさせたとも云えますが、ヴァザーリの伝記には芸術家としてのプライドはともかく、彼はレオナルドを深く敬愛し研究していたとされています。

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『サンガルロによるとされる模写「カッシーナの戦い」。1364年ピサ共和国攻略の陣中で水浴びをするフィレンツェ軍兵士達に敵襲が報じられ武装する瞬間を描いたとされる。ルーブル美術館蔵』

 実はウィンザー王宮図書館に残されているレオナルドのデッサンには河から這い上がる二人の兵士の裸体像が描かれているそうです。仮に「アンギアーリの戦い」の全体像の中にそのデッサン図が描かれるのであったのなら、やはり「カッシーナの戦い」は競作ではなく共作であったとするほうが自然です。二つの題材は時代も場所も異なりますが、一方が橋を巡る戦闘で一方が河べりで敵襲に驚く兵士達。互いが関連するように一つの作品として完成される予定であったと推測されるわけです。

 1505年3月にヴァチカンのユリウス二世に召還されたミケランジェロはフィレンツェを去り、レオナルドも一人で制作を続けましたが、同年6月に上記した手記にある洪水を引き起こすほどの大雨により画稿が使いものにならなくなってしまいました。その後幾度か努力をしたようですが、結局逃げるようにミラノへ去ってしまったのです。ミケランジェロはその後もフィレンツェに戻ってきているので、仮に別々の壁面に制作していたのであるなら再び手をつける事も可能だったはずです。それをしなかったのは、二つの作品が別々の競作ではなく、一つの共作であったからという確かな証拠ではないでしょうか。

 今回の記事にあるヴァザーリの絵画の背後にルーベンスの模写と同じレオナルドの画が残されていたとしたら、これは大発見になるでしょう。個人的には見つかってほしいと思いますし、凄い話題にもなりそうですし、そうであればぜひ見てみたいとも思います。

 しかし、地下のレオナルド本人はどうでしょう。些かも気に留めてないのではと思います。上記したように、彼は壁画の構想中もグライダーで空を飛ぶことばかり空想していたことが手記から判ります。しかも、それは夢物語ではなく、後に四冊にも及ぶ論文を完成させ理論上は可能な段階にまで到達させているのです。残念ながら、レオナルドの空飛ぶ翼が実現することはありませんでしたが、彼にとっては空想の中での飛翔だけでも十分満足していたようです。

 ミラノで名声を得たレオナルドにミラノを破ったフィレンツェの戦勝絵画を描かせるという政治的なプロジェクトの失敗など、空を自由に飛び回ることに比べたら、実に他愛もないことだったに違いありません。

参考文献 田中英道「レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯」

(1)1505年6月6日金曜日 レオナルド・ダ・ビンチ「マドリッド手稿」岩波書店

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