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長州藩振武隊 切り捨てられた志、維新功労者たちの末路 [史実]

  戊辰戦争において、長州藩の主力であった諸隊の一つ振武隊の隊士藤山佐熊を隊中様として供養し続ける山口市平川地区で、地元奉賛会により供養祭が執り行われた。

  文久三年五月、長州藩は攘夷の先駈けとして、馬関、赤間関沿岸砲台から関門海峡を航行する外国籍船舶に対して砲門を開いた。だが、翌月の米仏軍艦による反撃に前田、壇ノ浦砲台は壊滅を喫し、陸戦隊により沿岸を占拠されてしまった。藩主毛利敬親公は剃髪し隠棲していた高杉晋作を呼び戻し、下関防衛の任を与えた。晋作は「臣に一策あり」と、藩正規軍とは異なる寡兵を持って虚を衝き、寄道を持って勝を制する、いわゆる奇兵隊の創設を提唱した。

 周知のように奇兵隊が日本史上真に新しき軍隊であったのは、志があれば身分を問わずに入隊を認めた点にある。新式銃を主力兵器とし、簡素化した装備と合理的な西洋式戦術により奇兵隊は藩の主力部隊に成りえただけでなく、戊辰戦争の中核をなす存在へと駆け上がってゆく。

 一方、民衆のナショナリズムをエネルギーに強大な力を得た長州藩では、奇兵隊同様の部隊が続々と誕生した。現在確認されているだけでも、その数は官民合わせて400を超えるという。これらの部隊は総じて「諸隊」と呼ばれるようになる。(1)

 藤山佐熊が所属していた振武隊は、慶応三年(1867年)長州藩の軍制改革により南園隊と義昌隊を統合させて誕生した。隊長は奇兵隊から石川厚狭介(鳥羽伏見の戦いで戦死)が就き、隊員四百名は戊辰戦争では奥羽戦役を戦っている。

 明治二年、新政府は四境戦争で山口藩が占拠していた岩見と豊前を他県に移管するよう命じます。五千名近い諸隊を養う財源が失われた藩では、二千二百五十人を常備軍として選抜し、残りの者たちに解散を言い渡しました。更に諸隊の呼称を廃止し、四大隊に再編成する軍制改革を断行したのです。

 常備軍に精選された者たちの論功行賞も不十分であり、また選から漏れた兵士たちの大半が士分ではない農家などの二、三男であった。彼らのほとんどは、武士への取立てを未来の希望に託し、それを志にかえ命を懸けて戦ってきたのだ。自分たちを捨駒にした藩に対して、彼らがどれ程憤ったかは火を見るよりも明らかであろう。

 脱退騒動を起こした兵士たちの数は一時二千人にまで達した。藩知事毛利元徳公は十二月八日、三田尻、小群を巡回し、脱退兵たちに対しその功績を認めながらも、「厳粛にして何分の指揮を相待つべく候事」と早まったことをしないよう諌めた。だが、藩上層部が知事の安全を考慮し、士族の部隊を知事公館の警護に付けたことで、その対立はもはや引き返せない事態に陥った。明治三年一月二十四日、脱退兵らは「御警護」という名目で公館を囲み糧道を遮断してしまった。

 武力鎮圧に踏みきらざるを得なくなった山口藩は、木戸孝允の指揮のもと二月九日早朝に陶垰、鎧ヶ垰、小群柳井田関門へ進撃、勝利するも反撃を受け三田尻に撤退している。小群においての戦闘では鎮圧軍は七万発もの銃弾を消費するほどで、木戸は日記に「今日の苦難語り尽くすべからず」、と書いている。しかし、戦闘経験豊富な脱退兵ではあったが、指揮官が不足していたために立直した鎮圧軍に対して十一日に小群で敗れたまま潰走、戦闘は早々に終結した。(2)

 脱退騒動を起こした兵たちは、単に暴徒化しただけの輩ではありませんでした。藩政府に対して、自分たちの切なる要求を嘆願書として提出しています。上記したように、これまでの論功を公平に実施してほしいという希望の他に、上京してしまった戊辰戦争時の隊幹部達に代わって、新たに幹部に昇進した者達の不正の糾弾などがありました。彼らは上からの手綱の引締が無くなったことで好き放題していたのです。嘆願書の署名の多くに奇兵隊の文字が添えられていることからも、自分たちこそ維新を成し遂げたという自負があったに違いありません。

 その死後、隊中様として信仰の対象となった藤山佐熊であるが、実をいうと山口県内には隊中様として信仰を集めた脱退兵が幾人かいるという。その一人が江良山(現山口市小鯖)で戦死した秋元主計である。父親が現柳井市の医師で、眼病を治療してもらった原田市兵衛により主計の遺骸は丁重に葬られた。墓の正面に「秋元大明神」とあり、なおかつ信者たちから寄進されたらしき石灯篭が建立されている。(3)

 鎮圧された脱退兵たちの処分は、救助米の支給はあったものの、士籍は剥奪され農民や商人の身分に戻され、賞典なども没収されてしまいました。戊辰戦争の勝者であった彼らの末路は、敗者同様に世を憚る生き方を強いたのです。しかし、明治九年五月に元整武隊飯田源次が、毛利家に対して脱退兵の名誉回復を求める陳情書を提出しました。紆余曲折はあったものの同三十四年には法廷へと持ち込まれ、生き残った脱退兵ら原告は騒動により自己の権利が失われたことの不当を世に訴えるまでに至ったのです。

(1)長州藩では農民による一揆が各地で頻発していたことが、多くの諸隊を誕生させる背景にある。業を煮やしていた藩では民衆の力を内ではなく、外に向けて発散させるべく事情もあった。

(2)新聞記事などでは鎧ヶ峠と記述されているが、地元では「鎧ヶ垰」(よろいがたお)という名称表記が一般のようだ。垰は広島、山口県を中心に使われている方言である。

(3)現在、この墓は山口県下関市東行庵内にある奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地に移設されている。

この記事は山口新聞2014年4月10日版を元に書かれたものである。

参考文献 『高杉晋作』梅渓昇、『長州奇兵隊』一坂太郎

*無断転載は厳禁とします。


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makimaki

訪問しました
by makimaki (2014-04-11 23:36) 

Yubarimelon

コメントありがとうございます。
by Yubarimelon (2014-06-02 12:20) 

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