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川原塚茂太郎重幸 龍馬が心の悩みを打ち明け、実家との橋渡しとなった義兄 [人物]

 高知県立坂本龍馬記念館では、1月22日まで龍馬を陰で支え、志を継いだ彼の家族との交流を紹介する企画展が開催されている。

 展示品目の中の文久三年(1863年)八月十九日付け川原塚茂太郎宛の書簡は、実家の兄権平が龍馬に坂本家を継ぐよう願っていることに対する自分の悩みを打ち明けた内容の手紙である。

 当時、龍馬は軍艦奉行並勝麟太郎の門下生となり、神戸海軍操練所設立のために奔走していた。すなわち、自らの進路を見出し、人生の大海原に港から出航したばかりの時期と重なる。熱い思いを胸に脇目も振らずに目標に向かって突き進もうとしていた反面、実家からの要望には心を痛めていた。この手紙は、そんなどこにでもいる普通の青年坂本龍馬を垣間見ることが出来る珍しい書簡だ。

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『県立坂本龍馬記念館のテラスから太平洋を望めば、龍馬と同じような大望を持てるかもしれません』 

 川原塚茂太郎は文政十三年(1830年)土佐高知南奉公人町に生れ、家は徒士格であった。文久元年(1861年)に武市半平太の土佐勤皇党に参加し、幕末から維新にかけて国事に奔走した。実姉に龍馬の兄権平に嫁いだ千野がいる。

 企画展で紹介される龍馬の手紙は、平成十二年まで原本の所在が判らなかったものだ。『山内家資料 /第十六代豊範公記』に記録されていたため、その存在だけは知られていた。(1)

 また、「文久三年」の 年号は書簡中には見られないが、同年秋頃の姉乙女、春猪宛の手紙の文面、「 今日江戸へ参申候」と「猶龍馬らも要二有之候テ江戸ヨリノ書状八月廿八日二参同九日二大阪発足致」との符合、及び前後の龍馬書簡中に度々現れる四十歳までは修行のため家には帰らないの文言より当書簡は文久三年の筆記と類推されている。

 茂太郎は龍馬の書簡を土佐の坂本家に届けていたことが、現存する数通の書簡の中で確認することが出来る。また、「又兼而雅兄が御論二も土佐一国にて学問致し候得バ、一国だけ論いでず、世界を横行すれバ、又夫だけの目ヲ開き、自ら天より受け得たる知ヲ開かずバならぬとハ(中略)」

 土佐の中だけでの学問では一国の論に留まり、世界を行き来しそれを身に着けた知識を生かすよう努力しなければいけないとアドバイスしていた事も書かれている。茂太郎が乙女姉と同じように龍馬の良き理解者であったことを証明する手紙ともいえる。

 茂太郎は北越戦争に従軍し、維新の後明治政府に出仕していたが、明治八年参議板垣退助が自由民権運動を推進するため下野したことに同調し官を辞した。 土佐に帰国した翌年、国事犯として警視庁に抑留され、獄中内にて死去している。

 表立って名前が上がってこない人物ながら、坂本龍馬を陰で支えた川原塚茂太郎。今後はこうした人物にこそ光が当てられるべきであろう。  

(1) 『山内家資料』の掲載ミスで、それまで書簡の日付は8月29日とされてきた。

参考文献

「坂本龍馬全集」宮地佐一郎編

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*この記事は読売新聞2015年12月31日版を元に書かれたものである。 

*記事の転載は厳禁とします。 


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タグ:坂本龍馬
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