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乃木静子 人間乃木希典を支えた夫人の銅像を再建へ [人物]

 日露戦争陸軍第三軍司令官乃木大将の夫人静子の銅像は、戦時中に回収されるまで生誕地である鹿児島県鹿児島市新屋敷町にあった。戦後、長らく市民から再建の声が上がっていたが、この度広く募金を募り同地に再び建立する運びとなった。

 乃木静子は薩摩藩上士の湯地家の生まれ。明治維新までは減禄処分を受け、十人扶持の奥医師という体面であったが、たいそう貧乏であったという。だが、薩摩という気風の例にもれず、この家も赤貧でありながら明るい気質を備えた家庭であったそうだ。

 静子は七番目の子供からお七という名が本名であった。婚姻後、希典がその名が婦人の犯罪者を連想させるというので、自らの号「静堂」から一字をとって 静子に改名させた。

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『戦前、生誕地に建立された静子の銅像 原型製作大塚秀之亟 大正八年十一月二十七日 像ノ高三尺三寸』
 
「軍神乃木に配するに、 静子夫人を以てしたことは、奇しくも天の配剤の妙諦に唯々一驚を喫せざるを得ない。」
 
 昭和三年に発刊された「偉人の俤」 は、乃木静子の評伝の最初の一文をこう記している。戦前と今日の物事の判断基準が大きく異なることは明らかだが、静子への評価は当時と比べて大きく変化したわけではないようだ。
 
 静子と婚姻した明治十一年に希典は熊本鎮台参謀から東京歩兵第一連隊長に任ぜられた。当時、毎晩のように痛飲し、ほとんど家庭を顧みなかったと伝えられている。前年までの西南戦争時に、自らが率いた歩兵第十四連隊旗を喪失した自責の念を癒えることなく引きずっていたからである。
 
 また、軍人に金銭は必要なしという信条を掲げていたため金銭感覚は皆無に等しく、飲食に際してはポケットの有り金を全て出してしまい、好いようにしておけというのが通例であった。(2)
 
 静子にとって、何よりの心痛が姑寿子の存在であった。封建体質がそのまま遺っていた当時なだけに厳格な姑との口論が度々起こっていたという。また、それに輪をかけ希典の実母への篤き孝心が静子を家庭内で一層寂しくさせていた。
 
 明治十五年頃、この姑嫁問題が原因で、静子は二人の幼子に乳母を伴い谷中に別居してしまった。 希典はその間幾度か静子に会いに行ったらしいが、それはこれまでの行いを改めるとか母との間を取り持つとかいうものではなかった。決して愛情がなかったわけではないが、かといって希典の気質が変わるわけでもなかった。別居生活は四ヶ月程続き、結局金銭の問題で静子が折れるしかなく乃木家へ戻っている。子供たちの養育の問題もあったろうが、静子は自らを殺すことが家族の幸せであることを悟ったのかもしれない。
 
 静子の人生が悲劇的だと人はいう。確かにその通りである。二人の子供は後に日露戦役で傷病死している。戦後、希典は学習院長に就任し寄宿舎に寝食していた。その際、子息を失くされて淋しくないかと問われ、たくさんの子供たちをもったので少しもさびしくないと答えている。一方、「涙が出るほどものさびしい境遇」の静子は唯一許してもらえた盆石だけが楽しみであった。
 
 前時代的な封建体質を遺していた太平洋戦争敗戦までの日本の風習をみれば、 家庭内で絶体ともいえる夫に対する妻の従者的な位置付けは決して珍しいことではなかった。それは戦争で家族を失い、寂しい身の上となることも同様に。それゆえ、そんな境遇に女性たちが甘んじていなければならなかった時代の代表的な人物として彼女の名前が上がるのも当然といえよう。そして何より決定的なのは、妻として夫の死に自らも従ったという事実である。
 
 司馬遼太郎の小説「殉死」は、希典の遺書と夫妻が自害した当日乃木邸に詰めていた親族の証言、検死解剖の結果等から、あくまで想像としながら静子が自主的に希典と共に自殺したのではないことを匂わせている。
 
 希典の遺書の宛名には近親者と共に静子の名前も書かれていた。また、死後の財産分与に関しては静子に任せるとの内容から、希典自身も妻と一緒に殉死するつもりは当日直前までなかったといえる。
 
 夫妻が自害したのは、大正元年(1912年)九月十日明治天皇大喪の日、御柩が宮城を出発された夜8時頃である。
 
 その7時45分頃、静子は葡萄酒を取りに階下へ降り、次姉馬場サダ子の孫英子と普段と変わらない会話をしている。
 
 司馬氏は、夫妻が共に死ぬと決めたのは、 この前後の短い時間の間であったろうとしている。それではわずか15分の間に二人は如何にして死出の道を共に歩む事としたのか。
 
 著書では、静子は夫が死ぬつもりでいることには薄々気付いていたが、希典から一緒にと提案されたことに驚愕し結局それに従ったのではと書かれている。
 
 静子自身はどうであったのだろう。軍人気質を貫き通した夫に追随することには些かも口を挟むつもりはないが、一緒に自分も自害するとは夢にも思わなかったのを、果たしてたった15分で決心出来るものなのか。現代人の我々とは根本的に異なるのではあろうが、想像を絶するとはまさしくこのことだ。
 
 彼女が遺した辞世歌「いでまして帰ります日のなしと聞く 今日のみゆきにあふぞ悲しき」。希典が事前に用意した歌ではなかったか、あるいは彼女がわずかな時間で歌い上げたのかもと司馬氏は推測する。
 
 夫妻の部屋階下にいた静子の次姉は、「今夜だけは」という彼女の叫びを聞いている。今夜だけは気持ちの整理がしたい、今夜だけは従うことは出来ない。それに続く言葉は少なくとも一緒にお供しますという肯定のものではないようにも考えられる。
 
 己を殺すことで家庭の平穏を手に入れ、戦争で二人の息子を亡くし、自らの死も夫の決定に従った静子を悲劇的でないと一体誰が云えるであろうか。復元される銅像には、同様の人生を送る女性が現れるような時代が再び来ないことを願うと共に、私達とは異なる徳川の時代からの封建体質を身に宿した日本人がいた歴史、それは時に精神的な美しさを思い起こすが、同時に歴史を誤らせる危険性を秘めてる事も思い出させるものとなってほしいと願う。銅像の建立は平成二十八年十一月を予定している。
 
 
(1)希典の遺書にも書かれていたが、彼の殉死の最大の動機はこの連隊旗喪失の責任を取るためであった。失われた連隊旗は終戦後隊旗を奪った薩軍村田三介の自宅天井裏に隠されていたが発見されている。
 
(2)これは希典に限ったことではなく、当時の軍人の通常の気質であったといえる。しかし、晩年になっても希典はその体質が抜けず、自らは質素倹約で粗衣粗食であったが、軍人遺族、傷病兵への寄付、貧困学生への学費補助、神社仏閣への寄進、そして山鹿素行の「中朝事実」などを自費出版し分配するなど、俸給を使い果たし夫人を困らせた。
 
*参考文献
「乃木希典」松下芳男、「殉死」司馬遼太郎、「偉人の俤」 二六新報社編
 
*参考にさせていただいたサイト
乃木静子夫人奉賛会
 
*この記事は西日本新聞2016年1月14日版をもとに書かれたものである
 
*記事と写真の無断転載は厳禁とします 
 

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