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忠僕元助 生涯を掛けて四十七士の冥福を祈った従僕の供養祭が行われる [人物]

 赤穂四十七士片岡高房に仕えた上州下秋間字館(現群馬県安中市下秋間)の元助と四十七士の冥福を祈る「忠僕元助供養祭」が所縁の地元三ヶ所で行われた。

 元禄十六年二月四日(1703.3.20)、主人片岡源五右衛門が江戸細川家中屋敷で切腹した後、彼の従僕元助は郷里秋間村に戻り剃髪した。諸国を巡錫し小さな蓄えをもとに、20年の歳月をかけて東上秋間岩戸山に浅野内匠頭、瑤泉院と四十七士の石像を建立し、その冥福を祈った。  

 北陸新幹線安中榛名駅を車で東に5分程走り、そこから案内にしたがい山に分け入ると、大きく張り出した岩山に元助が魂を込めて創り出した石像群がある。人気のない山間に居並ぶ像を前にすれば、誰もが自然と敬虔な気持ちになるであろう。

 上州下秋間字館の百姓三右衛門の長男として生まれた元助は、継母との折り合いが上手くいかず故郷を飛び出した。僅かな路銀を頼りにお伊勢参りを目指したが、山田あたりで無一文になってしまったという。しかし、土地柄ゆえの情けにすがり付くことはできたが、逆に近隣の物乞い達からは縄張り荒しと痛めつけられてしまった。そこに内匠頭の代参で伊勢神宮に来ていた赤穂藩児小姓頭片岡源五右衛門が偶然通りかかり元助を救い出した。元助はそのまま源五右衛門の従僕となり赤穂へ行き奉公に励むこととなった。

 名を音外坊とした元助は石像の完成後、飄然と姿を消し二度と秋間には戻らなかった。

 房州和田浦長香寺(現千葉県南房総市和田町花園)には、享保十七年九月三十日(1732年) に村民救済のために自ら黒滝不動の岩窟に篭り、念仏を唱え続け二十一日目のその日入定した向西坊元助の名が伝えられている。向西坊は岩窟に篭る前村民に、「予念ずれば火難諸災難を除け、家内安全、五福寿を増長せしむべし」という遺言を遺したことから、当地では鎮火霊神として崇められている。

 安中市文化調査委員であり郷土史家の中沢多計治氏は、失踪した元助を明治期に調査していた戸塚信太朗、盛太郎父子が手掛かりを和田浦花園に見つけたが、当地の背年団が建立した碑に元助が石州の人であることを知り調査を中断していたことを突き止めた。

 中沢氏は昭和二十八年に自ら長香寺を訪問、島根県浜田市にも照会し以降10年調査を続けたが、元助の手がかりを発見するには至らなかった。 同三十八年三月元助供養の日に、氏は安中市と秋間村の有志を花園に伴い当地の有志との会合を催し、ここで元助の生地を上州秋間とする認識で両者は一致した。

 翌年三月十五日、花園の有志と青年団が秋間を訪れ、岩戸山の石像前で盛大な供養が行われた。花園の碑も書き換えられ、以降三月十四日を元助の供養の日と定め互いの訪問団が現在に至り交流を続けている。

 秋間と花園の伝助を結びつける具体的な史料がなかったことは残念ではある。しかし、主人片岡源五右衛門亡き後20年の歳月を掛けて建立した石像の存在は、当時の人にとって、受けた恩義は生涯を掛けてでも返さねばならない程の重いものであった確かな証拠と云えるのではないだろうか。 

この記事は東京新聞2016年3月26日版をもとに書かれたものである。         http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201603/CK2016032602000171.html

参考にさせていただいたサイト                                                                           安中市HPより  http://www.city.annaka.gunma.jp/kanko_spot/akou.html

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