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鳥取藩付属山国隊 檄文に応じ出陣し戦後上下身分を開放した義勇兵たち [史実]

 毎年10月に行われる京都の三大祭「時代祭」の行列の先頭を行く山国隊の地元京都市右京区京北の山国地区で、10月9日第21回山国さきがけフェスタが行われた。

 丹波山国郷で結成された山国隊は、地域の名称とは異なる「さんごくたい」と昔から呼ばれている。京都三大祭時代祭の行列の先頭を受け持つ集団といえば思い出される人も多いであろう。

 洛北の山を隔てた山国郷は、桓武天皇が平安遷都を行った際に内裏造営のための材木を供出し、大嘗会毎に荒木を献上するという皇室と深い関わりのある歴史を持った土地である。

 山国隊を組織する中心的な役割を演じたのが、名主と呼ばれる郷士たちだ。彼らは上記した内裏造営の材木を伐り出した伝承を持ち、山国五社明神(現山国神社)の神事への参加権を持つ特権集団であった。
 
 慶応元年以降、この名主層は江戸期以前の山国郷の皇室領統一と名主らへの官位拝任を復活させるべく公卿への運動を行っていた。名主の一人である水口市之進は、実弟鳥取藩士若代四朗左衛門の知人仁和寺宮門跡宮侍本多帯刀を通じて行った工作が功を奏し、王政復古大号令発布翌日の十二月十日に水口を含む名主四名の官位を拝任させることに成功した。(1)
 
 年明けの一月、鳥羽・伏見の役開戦にあたり、山国郷に西園寺公望の討幕軍募兵の檄文が廻覧された。水口は官位拝任で力になってくれた鳥取藩の後押しもあり、名主らに働きかけ参戦を決意。ここに農民による義勇兵山国隊が誕生することとなった。(2)
 
 同月十一日、部隊を山陰道鎮撫使の西園寺に合流する東軍と大阪仁和寺宮に加わる西軍に分け山国を出発した。だが、両軍とも本隊に合流出来ず京に引き返した。十八日、鳥取藩の取次で岩倉具視直々に立売御門警備を命ぜられると同時に、鳥取藩付属の「山国隊」を正式に認可された。しかし、朝廷付属を強く望んだ西軍はこれに異を唱え以後別行動を取ることとなってしまった。
 
 二月十三日、岩倉具定率いる東山道軍として京を進発した山国隊は上諏訪から甲州街道へ向かった。この時、隊長は鳥取藩内参謀河田佐久馬(後の景与)が兼務し、名主の藤野斎は隊中取締役を与えられた。彼らの初陣は、三月六日に甲州勝沼で大久保剛(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊との戦闘であった。四月二十一日、下野安塚の戦いでは旧幕軍との激戦において三名の死亡者を出している。
 
 江戸へ戻った五月十五日に上野で彰義隊と戦い、六月二十八日に河田隊長と志願した九名の山国隊は船で奥羽へ転進した。八月十七日から駒ヶ嶺(現福島県相馬郡新地町)を巡り仙台藩と戦い勝利している。 以上が戊辰戦争における山国隊の主な戦闘である。
 
 話は前後するが、山国隊結成に尽力した名主の水口は、金策のために京に残留し戦闘には全く参加出来なかった。彼らが他の諸隊と大きく異なるのは一切の戦費を自己調達したことであった。奥羽まで出征した東軍と京に残った西軍の総費用は約7788両にも及んでしまった。そのため、参戦していた藤口は従軍しながら常に金策に頭を使わねばならなかったという。支給される給金の少なさに隊員間で不満が高まったため、藤口は戦陣を後にし二ヶ月も京へ戻るはめになってしまった。
 
 戦後、山国隊は解散したが、借金は郷中に大きな負債となって圧し掛かった。結局、明治四年に奥山の山林四十四町歩を売却し返済に充てている。
 
 山国の名主層が画策した官位の拝任は成功したが、維新後の町村制により皇室領の統一は水泡に帰した。しかし、山国隊としての戊辰戦争従軍は、郷中に改革をもたらすこととなった。藤口の従軍日記「征東日誌」に、「今日上下ノ別ヲ解キ協同一致」と記してあるよう、戦闘における隊の団結を固める為、特権集団であった名主と非名主の差別を解消するよう努めていたのだ。これは明治期における山国郷のコミュニティ全体にも浸透することとなり、やがて山国五社明神の神事参加を非名主層にも開放する結果をもたらした。 
 
 戊辰戦争の最中、年貢半減により人心を掴もうとしたため、またそれを信じて加担してしまったために過酷な処分を受けたという事例を幾つか見ることが出来る。しかし、山国隊の参戦は、官位拝任を助けてくれた鳥取藩への恩義もさることながら、深い関わりを持つ皇室への尊王という純粋一途な思いが成し遂げた結果であったことは間違いない。彼らは大きな借財を抱えることにはなったが、結果的に郷中一和という未来の扉を開いたのである。 
 
*記事の無断転載は厳禁とします。 
 
*参考文献 歴史読本1998年12月号 
 
(1)山国郷は宝永年間(1704~11年)から皇室領、梶井宮門跡領と旗本杉浦領とで三分割されていた。 
 
(2)西園寺の檄文には、参じた者は後に年貢半減の御沙汰があるとあったが、農民兵であったにもかかわらず、山国隊の参戦に関しては影響を与えなかったと考えられている。
 
  この記事は京都新聞2016年10月7日号を元に書かれたものである。(http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20161007000057
 
*鳥取地震で被災された皆様にお見舞い申し上げます。一日も早い復旧と復興を心より祈っております。
 
*関連記事検索は、#幕末の諸隊  
 


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