So-net無料ブログ作成
検索選択

豊臣秀頼の墓 [人物]

 大阪夏の陣で自害したとされる豊臣秀頼が、真田幸村と共に薩摩に落ち延びたという言伝えが鹿児島県に遺されている。当地では、この伝説とNHK大河ドラマ「真田丸」にあやかり地域おこしに取り組んでいる。
 
 慶長二十年五月八日朝、大阪城内になだれ込んだ徳川方の兵から逃れるように、天守閣下の庫に淀君らと共に隠れた秀頼であったが、速水甲斐守の介錯で自害したとされている。豊臣母子に付き従った大野治長、大蔵卿局らもこれに殉じた。
 
 一方、家康の豊臣残党狩りはすさまじく、同月二十三日には秀頼の八歳になる国松を六条河原で斬首し、捕縛され斬られた浪人衆の首は、京から伏見にかけて十八列の棚を作り、一列一千以上が晒されたという。 
 
 『残ラズ焼失セテ 秀頼公ノ御死骸見エ分ラズ』 「大阪御陣覚書」
 
 秀頼と淀君ら約30人が最後を迎えた曲輪は、内から鍵がかけられ火が放たれた。焼け跡から発見された遺骸は男女の区別さえ出来なかったとされている。
 
 『五月八日、大阪城中ノ焼残リノ唐之物倉二、秀頼並ニ御袋、大野修理速水甲斐守以下付女中衆、余多籠リ居リ降ヲ乞ウ。井伊掃部安藤対馬検使トシテ相詰メ、倉ヘ鉄砲放チカケ、何レモ残ラズ生害、火掛ル也』「南禅寺金地院崇伝日記」
 
 『八日ノ朝マデ、秀頼又御袋モ焼残リノ土蔵ニハイリ御座候、御腹ヲ切ラセ御申候、御袋モカネテノ口ホドナク候テ、ムザト御果候』「伊達政宗書状」 
 
 当時、現場に実際居合わせた人物たちの記録が現在の定説の下となっているわけだが、何故秀頼生存が流布することになったのだろう。
 
 一つは上記した記録のとおり、遺骸が発見出来なかったことが大きいようだ。また、幸村の首実験も確たる立証を得られなかったこともあり、太閤贔屓の京阪では『花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田がつれて 退いたよ加護島へ』という童歌まで持て囃された。
 
 鹿児島県鹿児島市には「伝・豊臣秀頼の墓」が存在している。平成五年に発刊された「歴史群像」4月号で、歴史家の鈴木旭氏がこの墓に関して興味深い記事を投稿している。
 
 秀頼の墓と伝わる墓は、台石を除く高さ2m余りの宝塔である。宝輪の数は九つ、笠石は破損し塔身の傷みも激しいが立派なものであるとしている。
 
 この宝塔を実際に調査・鑑定した鹿児島市文化財審議会委員の木原三郎氏(当時)によると、秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓ではないかと推測している。
 
 その根拠は、塔身首部の長さが約8cmであるため鎌倉中期のものに該当すること。宝輪の数が九つのものは平安末期から南北朝初期の作になるという。明らかに秀頼の時代とはかけ離れたものであることは間違いないようだ。
 
 墓は誰のものか。南九州の古宝塔は宝輪の上下にある請花紋様が姓氏家系ごとに決められている。その特徴から推理すると、平姓薩摩六郎忠直が建立した古宝塔(現鹿児島県川内市)と特徴が一致することが判った。平姓の系図を辿り、 当地に居住する子孫を調査したところ上記した人物の墓である結論に達した。
 
 なお、鈴木氏は推測としながらも、鹿児島における秀頼伝説には、慶長三年三月に関白秀次事件に連座した近臣木下吉隆を、太閤秀吉が薩摩に配流・自害させた史実に関連があるのではと記事を締めくくっている。
 
 江戸時代を通じて、薩摩には中央に対して一歩も引かないという気風があった。京童が口ずさんだ歌も薩摩の徳川への確固たる意志表示の一つなのではないだろうか。 
 
関連サイト
 
この記事は西日本新聞2016年12月22日号を下に書かれたものである。http://www.nishinippon.co.jp/nnp/kagoshima/article/297385/
 


一年間応援ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

nice!の受付は締め切りました

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL:
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。