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高杉東行終焉之地 [人物]

 幕末長州藩の英雄高杉晋作没後150年となる今年、下関市立歴史博物館と墓所のある東行記念館で共同企画展を開催している。

 慶応二年五月朔日、老中小笠原長行は幕命として長州藩に対し、十万石削封、藩主父子蟄居と公孫への家督相続を命じると共に、谷潜蔵(晋作)、木戸寛治(孝允)ら十二名を広島に出頭するよう迫った。しかし、家老宍戸備後助、小田村素太郎がこれに応じなかったため両名を拘禁した。

 小笠原は六月五日をもって従軍諸藩兵に対して進軍を命じ、ここに第二次長州征伐の幕が切って落とされた。 

 山口県下関市は、歴史の表舞台に幾度も登場する土地であるのは周知の事実だ。そびえる関門橋の下、狭い海峡を大型の船舶が行き来する景観には誰もが目を瞠るであろう。
 
 私は以前鹿児島を旅行した際、当地の英雄西郷隆盛の精神的な何かを感じたく史跡をまわったのだが、今回も幕末にこの下関で、倒幕のために命を燃え尽くした高杉晋作の目には見えない息吹のようなものを求めて時間の限り歩いてみた。
 
 「土州坂本竜馬来 高杉ト談話(中略)両肥、筑、久留米、柳川ヘ書簡頼ムノ策也」(白石正一郎日記慶応2年6月20日)
 
 下関の豪商白石正一郎邸にて、晋作は龍馬と共に九州従軍諸藩を幕府から離反させるための文章を起草し、小倉の幕軍陣営に書状を送付している。
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『①白石邸浜門古写真②長府に移築現存する浜門➂白石邸址④維新後白石が宮司となった阿弥陀寺(現赤間神宮)、背後の紅石山には白石の墓がある』  
 
 同年七月廿七日、第三次小倉攻略を行い田ノ浦(現福岡県北九州市門司区)へ上陸。晋作は大里の本営で薩摩藩士村田新八と面談している。

 「高杉普作ハ本陣ヨリ錦之手ノボリニテ下知シ 薩州ノ村田新八ト色々咄シナドイタシヘタ々笑乍気ヲ付テ居ル 敵ハ肥後ノ兵ナドニテ強カリケレバ、普作下知シテ酒樽ヲ数々カキ出シテ、戦場ニテ是ヲ開カセナドシテシキリニ戦ハセトフトフ敵ヲ打チ破リ肥後ノ陣幕旗印抔残ラズ分捕リイタシタリ(後略)」(坂本龍馬慶応2年12月4日手紙) 
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 『①②宮本武蔵小倉碑文のある手向山より慶応2年7月27日長州藩対肥後藩の激戦地赤坂を望む ③赤坂東公園内にある慶応丙寅激戦の址、奇兵隊山田鵬介及15名が戦死、遺体を収容出来ないまま長州は退却したが肥後横井小楠により近辺に埋葬された 当地北側の延命寺に奇兵隊戦死者の墓がある ④手向山より下関を望む、左に彦島』(福岡県北九州市)
 
 同年七月末日、肥後藩が戦線を離脱すると同時に、老中小笠原も将軍家茂死去の報に接し秘かに長崎経由で大阪に退去してしまった。八月朔日、取り残された小倉藩兵は小倉城に火を放ち撤退した。長州藩は小倉を占領、おびただしい程の武器、弾薬、兵糧を戦利品とした。体調が芳しくなかった晋作も山内梅三郎、白石正一郎らと焦土となった城下を検分している。
 
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 『下関厳島神社は第二次長州征伐に際し晋作が戦勝祈願し小倉戦争の戦利品大太鼓を奉納した』
 
 「谷氏不快」(白石正一郎日記慶応2年7月21日)  
 
 小倉口の戦いの最中、晋作は体調を崩していた。 過労により労咳の症状が悪化してしまったのだ。
 
 同年七月二十二日、藩医長野昌英が診察に来ている。また、下関南部町の商人紅屋喜兵衛がうなぎや氷砂糖を届けたり、奇兵隊からは鯉の差入れ、福田侠平や入江和作らの見舞いが重なった。
 
 同年八月、小倉口の戦況は逃散していた小倉藩兵の小規模なゲリラ戦こそ続いていたが、戦火は収束しつつあった。だが、晋作は病状を押して、英国からの抗議に対する応接に忙しく動いていた。長州藩は対外折衝に関して任せられる人物が晋作作以外にいなかったのだ。(1)
 
 同年九月十二日、病に気がねし奇遇していた白石家を出て、妾おうのを連れ入江和作方へ移っている。また、同月十六日、筑前姫島牢獄から救出された野村望東尼を白石家に迎え九州逃亡時の恩顧に報いた。(2)
 
 「桜山七絶 時ニ余家ヲ桜山下ニ移ス」(高杉晋作全集) 
 
 同年十月二十七日、 望東尼のために建てていた桜山招魂場(現桜山神社)下の小家に移り療養に入った。すでに藩からは現場での職務を全て免ぜられていた。
 
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『桜山七絶の漢詩が刻まれた晋作療養之地碑と当地から見た桜山神社』 
 
 慶応三年三月二十七日、療養地から南に下った林算九郎宅へ移る。林は功山寺挙兵時に軍用金を援助した侠商である。また、この頃萩より父をはじめ家族も見舞に訪れている。
 
 「船ハ何レヘ着キ候カ 百姓ノ蜂起気ニカカリ 山口へタダ今ヨリ出浮く候」(楫取家文書)
 
 同年四月、介抱の甲斐なく晋作は重態に陥った。朦朧とした意識の間、うわ言を繰り返すようになっていた。そして、その月の十四日未明二十九歳の短い生涯を終えた。
  
 
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『晋作が息を引き取った林算九郎宅跡に建つ終焉の地碑』 
 
 晋作の死に際して、辞世句「面白きこともなき世を面白く」が知られているが、長州維新史研究家の一坂太郎氏により、この句が高杉家資料「東行遺稿」の中に収めれており、慶応二年の作であったことが判明している。臨終間際の望東尼とのやり取りは後世の創作なのだ。
 
 大正五年に正妻雅が雑誌のインタビューで晋作の死について以下のように話している。
 
 「東行は自分の体は悪くなるし、それに引きかえ世間は愈々騒々しくなるので日に日に昂奮するばかりでいつもいらいらしていました。井上(馨)さんや福田(侠平)さんに向かっていつも『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。しっかりやって呉れろ。しっかりやって呉れろ。』と言い続けて亡くなりました。いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。『しっかりやって呉れろ』というのが遺言といえば遺言でございましょう。」
 
 一時的に意識が戻った際、後を託す者たちへこう言うのが精一杯だったのであろう。動けば雷電の如く発すれば風雨の如しという誰もが持つ晋作のイメージとは裏腹に、周りの者たちへ常に気を配る心細やかな人物が晋作の実像なのかもしれない。
 
 慶応二年の十一月、療養に入った晋作は萩から山口に藩庁が移るため家族に土地と家屋を用意している。親不孝だった自分が両親にできることはこれぐらいとの思いがあったのかもしれない。また、重篤に陥った晋作の側にいた医師杉義介の回想によると、赤禰武人の心中を察することが出来ず、処刑せねばならなかったことを悔いていたと。(3)
 
 倒幕のためにわが身を使い尽くしたが、その幕府が倒れる様を目にすることなく死なねばならなかったことはさぞ無念であったかもしれない。それでも、薄れゆく意識のなかで師吉田松陰の言葉「死は好むべきに非ず、また悪むべきにも非ず 道尽き心安んずる、便ち是死処」を思い、心に平安を満たしていたことであろう。 
 
(1) 慶応2年7月21日、英国汽船チェサン号が長州の砲台から攻撃された件。同年8月13日、英国艦船アーガスのラウンド艦長が馬関海峡北岸彦島への砲台建設を元治元年の協約違反であると抗議してきた2件について。前者に関して晋作は当方の過誤を認め英国からの問責があるなら責任者を切腹させるとしつつ、寛大な処置を懇願したため不問に付されている。後者は一時的な自営のためであるとし必要なら砲を撤去する旨を申出たところこちらも形式的な抗議だけで止められた。
 
 
(3)赤禰武人は奇兵隊三代目総督。晋作の武力革命による長州藩の倒幕路線を否定したため、裏切者として処刑された。 
 
この記事は山口新聞2017年4月3日号をもとに書かれたものである。
 
参考文献
「高杉晋作」梅渓昇、「歴史読本」1996年8月号 
 
「高杉晋作没後150年記念企画展『焦心録』 」
下関市立歴史博物館:http://www.shimohaku.jp/page0108.html 
 
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