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城を巡る旅(姫路城) [史跡]

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史跡と呼ばれるもののうち、その代表的なのが城郭ではないでしょうか。

いわゆるお城の見学は私も大好きであります。

特に国宝指定の城(松本城、彦根城、犬山城、そして姫路城。)は一度は見ておきたいと常に願っています。

2007年5月に私は大阪を中心に2泊3日の旅行をしました。姫路城にはその時3時間ほど立ち寄ったわけです。世界遺産にも登録された安土桃山時代後期の代表的な城郭建築を以前からぜひ見学したいと思ってたのです。

姫路駅に降り立ちますと、正面に姫路城が遠望できます。ちょっと仙台の駅前に似ていると思いました。(日本の駅前ってどこも似たり寄ったりなのかもしれませんがw。)

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歩いてもそれ程遠い距離ではありませんが、ここは無料のレンタル自転車を駅で借りるととても便利です。

商店街にはやたらと世界遺産の文字が見えます。世界遺産に登録されるという事はとても素晴らしい事だと思いますが、一方で世界中から観光客が訪れるという経済効果を狙っての登録推進が昨今問題視されてます。私は世界遺産であろうが無かろうが、その史跡が積み重ねてきた歴史が一番大切だと思うのです。史跡自体の価値を決めているのも、やはり歴史があるからこそではないでしょうか。

さて、城郭に近づくと五層の大天守とそれに連立する三層の小天守群が目の前に大きくそびえています。左手にはその連立天守より一段低い場所に西の丸の白亜の渡櫓が木々の緑の上に見ることが出来ます。西の丸が鷺山に建てられてる事と丁度白鷺が翼を広げた姿に模して、この城を白鷺城とも呼ばしめてる美しい景観が展開しています。

南側の大手門から多くの観光客が入場していたので、私は一度内堀をぐるりと一周した後に東側の搦め手門より天守を目指しました。

この姫路城の特筆すべき点の一つが多くの廓が当時のまま残され、又は復元されている処だと思います。普通私達がお城と呼んでいるもののほとんどが天守閣の事で、本来城とは内堀に囲まれた本丸、二の丸、三の丸ぐらいまでの政治、軍事の拠点であり、いざ戦時には出陣すべき家臣団の生活空間が存在する国家の中心的区画の事です。

ところが明治維新以降、多くの城郭が不要の存在となり必要のない廓はお役所や軍の施設にとって代わってしまった為に破却され、近代になり街のシンボルとしては天守閣ぐらいしか復元出来ないというのが、現在の日本の現実です。

それ故にこの姫路城は内堀内の廓の全てが当時のままの形で私達が目にする事が出来るという稀有な存在なわけです。もちろん、築城当時には今より遥かに多い隅櫓や渡櫓が存在していました。それらはこれから少しづつ復元して欲しいと願うものです。

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敵の侵入を阻む為に工夫されているお城ですが、現代人の私には急な石段や迷路のように張り巡らされた回櫓を巡るのは中々きついですw。

駅から遠望した時はそれ程高い場所にあるとは思えなかったのですが、いやいやとんでもない。姫山に築かれた丘山城です。天守閣の頂上から姫路市内を見下ろすと瀬戸内海まで見渡せてとても気持ち良かったです。(城の視界を遮るような高層建築物もなく、保存に尽力されている方々には本当に感謝です。)

豊臣秀吉が入城した時は毛利氏攻略の拠点となり、関が原以降は徳川幕府の西の守りを果たした姫路城。一度も実戦を経験しなかったとはいえ、戦国時代を生き抜いた凄みを感じずにはいられませんでした。

駆け足で見学した最後は、西側にある元は武家屋敷であった好古園で人気の穴子弁当を食べて姫路を後にしました。

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姫路城


タグ:姫路城

原田甲斐宗輔 [人物]

私が以前暮らしていた宮城県仙台市は実に素晴らしい街でした。
過ごしやすい気候、周囲の山々の緑、海から吹く潮風、東北独自の人の温かさ、そして食べ物もとてもおいしかったです。

中でもそこに積み上げられた歴史は、私を大変楽しませてくれました。
青葉城をはじめとする数々の史跡を見聞し、そこから学ぶことが沢山ありました。
(まぁ、全てというには限界がありますけど。)

それらの一つ一つを点として結びつけ線とし、線を結んで面とする。
歴史というものを書物の中だけで消化するのではなく、現在までに残された形あるものからそれらを立体的に組み立ててゆき、自分の中で完成した形に近づけていくこともまた楽しみの一つだと思っています。
謎解きとまではいきませんが、知識の空白を丁度パズルのピースを一つづつ埋めて行く様な作業に似ているのではないでしょうか。

さて、その仙台の歴史の中で特に私を惹きつけた人物が伊達騒動で悪名を一身に受けた原田甲斐です。
私ははじめ、小説「樅ノ木は残った」でこの人物のことを知りました。
歴史小説ではありますが、読後深く心を潤わせてくれる素晴らしい作品だったと思います。

伊達騒動に関する資料や文献を目にしながら、私の中でフィクションとしてのイメージが出来上がっていた原田甲斐の虚像を、少しでも真実に近づけることが出来たらいいなぁと考えていました。
ここで史実である伊達騒動とはどんな事件だったのか、簡単に書いてみます。

万治三年(1660)に伊達家三代目藩主綱宗は突然幕府より逼塞を命じられ、わずか二歳の亀千代丸が家督を相続することに。以後十一年間、亀千代丸(後の綱村)の後見役である伊達兵部(一ノ関)が藩政の実権を握ります。そのあまりの横暴さに一族重臣である伊達安芸(湧谷)が幕府に直訴。寛文十一年(1671)大老酒井雅楽頭邸における裁決の際、兵部の腹心原田甲斐が安芸を惨殺、一人を除く関係者全員が死亡するという事件が起きました。この刃傷事件によってかえって兵部の罪状は定まり、伊達藩62万石は安泰するという結果に。簡単ではありますが、これが史実に沿った概要であります。

その為、地元仙台でも原田甲斐は非道の臣として歴史的に定着している感があります。
しかし、考えようによってはこの事件は少し腑に落ちない点がある事にも気付きます。

当時幕府は外様大名を取潰して、将軍家の保全を最大限確保することに躍起でした。
加賀百万石に次ぐ大藩の伊達藩を潰す好機だったにも関わらず、逆に安泰させたのはどうしてでしょう?
これは私が考えた意見などではなく、すでに大正年間から原田甲斐忠臣説として言われ続けてきたことです。

一ノ関と雅楽頭は婚籍関係にもあったことから、伊達藩取り潰し後半分の領地で兵部を新たに大名として取立てるという陰謀説があり、これを知った甲斐が雅楽頭を黒幕として訴えない代わりに、自らの口を封じ身命を賭して藩を救ったというのです。残念ながら、甲斐忠臣説はあくまで推測の域を出ません。それらを立証できるものは何一つ無いからです。事件後、原田家は断絶。男子は養子に出された者から幼子まで全員死罪という過酷なものでした。当然、史跡に関してもほとんどが廃棄されてしまいました。

小説「樅ノ木は残った」は大河ドラマ(1970年制作の為、私は見ていません。)にもなり、これが人気を呼びいつしか人々は史実を越えて、フィクションの忠臣原田甲斐を定着させてしまった様に思えます。(丁度、水戸黄門が全国を旅していたと思われてるのと同じように。)

また、ドラマの舞台というのは昔も今も観光スポットになるのが常です。
甲斐が治めていた船岡は「一目千本桜」が有名です。(東北線沿線に千本の桜が植えてあるのですが、シーズンには観賞の為に電車が徐行してくれるのです。)

全国から観光客が押寄せて来るのに、船岡城に原田甲斐の「は」の字も見当たらないのでは話になりません。歴史認識としては悪逆非道の人ではありますが、この船岡ではドラマの主人公(=忠臣)として扱われているのも無理はありません。

まさに小説は事実より奇なりです。

城の一角には雅楽頭邸で甲斐を斬り、合い果てた柴田外記(柴田家が原田家断絶後に船岡を治めた。)と甲斐の供養碑が並んで立っています。地下の二人はこれを見てどんな顔をしているでしょうか。
更にここぞとばかり、小説に応じて一本の樅の木まで植えられているのです。

原田甲斐が一族を犠牲にしてまで救いたかった国とは一体どんなものだったのでしょうか。多くの藩が幕府により取潰され、藩士やその家族郎党にいたるまでが路傍に迷う姿を、甲斐だけでなく国を持つ侍は全て見てきたはずです。
たぶん、今の時代の人には考えつかないぐらい当時の彼らにはそれを守ることが重く圧し掛かっていたに違いありません。

結局、私にとって原田甲斐という人物は白黒がはっきりしないのです。
史実としての悪人か、小説のように忠臣であったのか。
真実を求める事はとても大切ですが、それが出来ないのならあるがままを受け入れることも大切なはず。

今では船岡での原田甲斐の扱われ方もそれは一つの歴史なのだと考えるようにしています。例えそれがフィクションであっても、訪れた人が関心を持ってこの人物・事件のことを知るようになってくれる方が意味があると思います。

どちらにしても伊達騒動の結果、仙台という街が現在に至るまで伊達政宗が築いた礎のまま存続したわけです。
私のような素人にとっては、その事の方が余程嬉しくあり、重要であるのは言うまでもありません。

船岡城址公園


敬天愛人 [人物]

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 「敬天愛人」とは読んで字の如く天を敬い、人を愛す。シンプルでありながら、実に深く示唆にとんだ言葉だと思います。少し文典を紐解いて、私も復習してみましょう。

 ここでいう「天」とは「天の徳」、すなわち一片の私利私欲なき「仁愛」であり、「天」とは「仁愛」そのものの象徴。従って、「天」を敬うという事は「仁愛」を行うという事、人を愛するという事です。
つまり、「愛人」とは「敬天」の必然的行為なわけです。天を敬い故に人を愛す、天に向かって敬となし、人に対しては愛となす。同じ意味なんです。

 そう、「敬天愛人」とは私が敬愛する人物の一人、南洲西郷吉之助隆盛の精神的支柱であり、行動規範である言葉であります。

 西郷吉之助は安政五年(1858年)十一月十五日の夜、安政の大獄で幕府より捕縛手配を受けた僧「月照」と共に錦江湾に身投げします。
彼の師でもあり、先君の故島津斉彬公とも懇意にしていた月照から多くを学んだ吉之助は指名手配犯であっても薩摩藩でなら彼を保護できると思い、逃走を手助けします。
ところが無情にも藩は入国を拒否するだけでなく、吉之助に月照を捕殺するように命令します。自らの寄る辺であった国元の冷たさに絶望した彼は月照を日向(宮崎県)に船で送る途中、一緒に海へ飛び降りたのです。しかし、若い吉之助は蘇生し、月照は死んでしまいます。

 当時の武士の心情として、自分から一緒に死んで下さい、とお願いした相手だけが死んでしまった事がどれだけ恥ずかしくて、つらかった事か計り知れません。
家族は心配で家では彼の側から、一切の刃物を遠ざけたそうです。
藩も幕府の手前、吉之助を保護する意味もあって奄美大島に配流します。

 島での暮らしは考える時間がたくさんあったでしょう。「どうして、自分は死ねなかったのか?」
時間が過ぎてゆき、少しづつ気持ちも落ちついてくると、この上自殺など図るのは死の上塗りであると思い直したでしょう。それでも、月照に対してすまなくて心が落ちつく事ができない。
苦悩の時間の中で、やがて、
「天が自分を殺さなかったんだ。」こう考える事でようやく落着きを取戻す事ができました。
これこそ、生涯の信仰的哲学になった「敬天」の始まりであったようです。
彼はその実践方法として、天の徳に対して無私無欲の仁愛の人となると考えます。
物欲、名誉欲、生命欲からも解放され切る事が人間の至上の修行と信じて努力し続けました。

 『自分は一度死んだ人間だ。土中の死骨に等しい。これからの命は自分のものではない。世のため、国のために捧げよと天が自分に預けたものなんだ。』

 幕末史に多大な功績を残した彼の根底にはこの敬天愛人の哲学、無欲に徹し切る事があったればこそと思えます。

 『人間一生の修行は欲を離れきることにある。それによって人間は慈愛に達する。すなわち、天地の慈愛と合致できるのだ。』

 私は上野にある銅像を見上げる度に思います、本当に日本にこんな人がいたんだと。
「敬天愛人」という言葉とその思想は、西郷さんの器量の大きさと比較できない程小さな自分を見つめ直させてくれる、いつまでも胸にしまって置きたい大切な言葉の一つなんです。


* こblogは2005年5月に投稿した記事を編集し直しました。

* 上の写真はイタリア人画家キョソネが描いた肖像画です。現在、西郷さんと確認できる写真は1枚もありません。この画も親族の方々の風貌や話等から想像して描かれたものなんです。

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* 西郷さんの銅像といえば上野山が有名ですが、地元鹿児島にも建立されています。戦時中、金属回収の呼びかけに対して県は島津斉彬、久光、忠義の三公の銅像は供出しましたが、この銅像には手を触れませんでした。お殿様よりも家来である彼が信望されていたという証拠ですね。

*鹿児島市にある西郷さんの銅像の写真を差し替えました。(2011.12.9)

鹿児島城(鶴丸城)跡


タグ:西郷隆盛

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