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支倉六右衛門常長 月ノ浦より出ずる  [人物]

宮城県牡鹿半島の先端にある金華山(山といっても島なんです。)に一番近い岬までは仙台から車で2時間程で行けるドライビングスポットです。特に御番所公園(伊達藩が外国船を監視するために設けた監視所が復元されている。)から望む金華山はとても見晴らしが良いです。

女川から行くコバルトラインではなく、南側の渡波側から行くコースの途中に月浦という小さな漁港があり、そこを見下ろす高台の公園に支倉六右衛門常長の銅像があります。

その場所を訪れていた頃は支倉常長を詳しく知らなかった為、あまり興味を持っていませんでした。月浦から帆船サン・ファン・バウティスタ号に乗り、慶長遣欧使節としてローマ法王に親書を届けに行った程度です。

しかし、その後遠藤周作著「侍」に感動した事をきっかけに、詳しく知りたいと思う様になった次第なんです。

小説「侍」は史実に沿った物語ですが、特に主人公の心情に関しては作家の創作テーマを強く感じました。ですが、旅の途中で残してきた故郷や家族の事を度々思い出すあたりには実際の常長もこうではなかったのかと思えるリアリティがありました。

7年という長い旅の果てに帰国した常長を待っていたのは厳しい日本の禁教令でした。藩主伊達政宗の後ろ楯となっていたと思われる徳川家康もすでに亡く、日本は鎖国への道を進み始めていたのです。

そのため旅の目的であった通商交渉も失敗に終わっただけでなく、彼の苦難の冒険の事実も持ち帰った資料も全て闇に消える事になってしまいました。

ですが・・・・・、歴史というものは本当に不思議なものです。その常長が再び歴史に登場する機会が巡ってくるのですから。

それは明治六年(1873)岩倉具視率いる遣欧使節がヴェネチアの古文書館を訪問した際の事です。そこでイタリア側から常長の1616年2月24日付けの署名花押入りの文書を見せられた一行は仰天したということです。岩倉はおろかなんと随行していた歴史学者でさえ常長の存在どころか、伊達藩が西欧に使者を派遣していた事を知らなかったというのですから。

その3年後明治天皇が東北地方を巡行し宮城県博覧会でその260年間封印されていた慶長遣欧使節の関係資料を天覧されました。この事は新聞によって全国に知れ渡り、慶長遣欧使節支倉常長の存在が歴史の表舞台に登場する事になったのです。

岩倉具視はこれを当時の日本が西欧列強に対して追いつこうとする国威高揚のプロパガンダとして利用したのです。慶長遣欧使節を明治の文明開化に先立つヨーロッパとの文化交流として位置づけたわけです。更に政府が促進していた農村の次男三男を海外の未開拓地への移住政策の起爆剤ともしたのです。

封印されていた資料の中に現地で描かれた常長の肖像画がありました。それは侍を描いた最古の油絵である事から現在国宝に指定され仙台市博物館に保存されています。私も鑑賞した事があるのですが、手を合わせキリストに祈る常長の姿が描かれています。非常に穏やかな表情で侍というより神父のように見えます。されど、画には大きく十字に傷が入っていました。これはこの画を禁ずるものとして折りたたんでしまわれていた事を意味するのだと思います。

理由はともかくこうして歴史の闇に葬られていた常長の存在が、陽の目を見たのは良かった事だと思います。けど、彼にとっては藩主伊達政宗の命に従ったまでの事。これは常長だけではなく全ての禄を汲む侍に当てはまる事でしょう。自分の使命に意味があるかないかは関係ない、されどその行為に対しては自分が責任を取らなければならない。厳しい立場にあったと察する事が出来ます。(常長の死後、息子の常頼がキリシタンをかくまっていた事から処刑されお家断絶となります。寛文八年(1668)に再興。藩としても伊達政宗の意向から起きた事が起因する断絶だったために内心じくじたる思いがあったという事です。)

そういう意味では当時の侍達が如何に悲劇的であったかを痛感します。私は常長の銅像をはじめ関係資料を目にする度にこうした想い(「侍」の六右衛門の常に自分は捨石なのだと自覚しながらも、不安の中で旅をする家来達を鼓舞し続ける姿とだぶります。)にとらわれがちです。

ですが、常長の冒険が無意味であったとは決して思いません。江戸時代初期の日本の情勢や技術力から東北の一大名の使節が自前の西洋式帆船でローマ法王に親書を直に渡しに行くなんて偉業以外に形容の言葉はありません。 

彼の業績は月浦から少し西に行った場所に復元されたサン・ファン・バウティスタ号が保存されているサン・ファン館で詳しく知る事が出来ます。(太平洋の危険な航海を擬似体験できるアトラクション等もあります。)

現在の月浦も当時と同じように波の静かな佇まいを見せています。またいつかドライブも兼ねて行って見たいと思っています。

 

宮城県慶長使節船ミュージアム


城を巡る旅(上泉城) [史跡]

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 上州群馬県は戦国時代、北の上杉、西の武田、そして南は北条という国境であったため、戦乱の絶えない地域でした。それ故、各地の小豪族達は自らの家名存続のため、昨日は北条、今日は上杉というように自分達に有利な方の大名に付き従う事が日常茶飯事でした。

 西上州箕輪城の長野業正は関東管領山内上杉家に属し、武田信玄も一目置く程の武将でした。信義に厚く、主に対しては死ぬまで変節する事はありませんでした。そのため、信玄も何度か箕輪城を攻めたものの、業正が生存してる間は上州を攻め取れない事が判ったので、その後は侵攻して来る事はありませんでした。

 その主である関東管領上杉憲正は、天文十五年(1546年)に8万の大軍で北条氏の河越城を包囲するも、北条氏康にいわゆる河越夜戦で大敗を喫した事を契機に勢力が衰退。越後の長尾景虎に保護を求め身を寄せました。

 憲正は落ちぶれはしたものの何とか北条に対して一矢報いたい。そのため関東管領の職を景虎を養子に向え譲る事にします。ここに越後上杉家が誕生し、関八州に進出する名分が生まれ、武田北条上杉の三大名による関東三国志が勃発する事になります。

 一方、業正は上杉憲正が上州を去った後も北条氏には付かず、小豪族をまとめ対抗しました。その長野氏の十六槍と呼ばれる猛者の中に上泉信綱がいました。業正亡き後も嫡子業盛の下で奮闘しました。しかし、永禄九年(1566年)に武田信玄2万の大軍に箕輪城は攻められ長野氏は滅亡。西上州は武田家の支配を受ける事になります。

 さて前置きがかなり長くなってしまいましたが、上泉信綱のその後は以前書いたとおりです。

 暑い最中ではありましたが、信綱の銅像を見学しに上泉城址を訪れてきました。

 農業や牧畜を営んでる方の住居が多く点在する閑静な場所に上泉自治会館があり、その正面入り口入った所にまだ真新しい上泉信綱の銅像があります。

 静かに下段に構えたその姿勢からは相手を威圧するのではなく、包み込むような暖かさを感じます。

 しめやかな地でありながら多くの人に尊敬されている剣聖を、動ではなく静で表現したこの銅像に私は感動しました。

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 現在上泉城の面影を残すものは史跡に指定されている上泉郷蔵だけです。残念ながらここが城址であると説明されなければ認識すら出来ないかもしれません。

 しかし、西林寺には信綱のお墓もあり、ここが間違いなく上泉伊勢守の生誕した場所であり新陰流発祥の地である事は疑う点は何一つありません。

 この日も気温が35℃くらいあったため長くはいられませんでしたが、見学できて良かったと思いました。

補:信義の厚い長野業正の逸話として、信州上田の真田氏の祖真田幸隆も長野氏に身を寄せていました。しかし、関東管領家が越後に逃亡した事で武田氏に寝返ろうとし、長野氏の下を離れます。途中業正からの手紙が届き、残してきた妻子の安全と幸隆の再起を期待するという内容に大いに感動したという事です。

 

箕輪城


松平肥後守容保 [人物]

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夏目漱石の小説「坊っちゃん」の中で、主人公の同僚である山嵐先生は「強情な奴」として登場します。それは彼が実際に物語の中で強情っ張りなだけではなく、会津出身者だからというのも理由になっているのは、読んだ人にはわかるでしょう。

この小説が発表された当時、会津の人のことを「強情っ張り」だというイメージが国内にあったかどうかは定かではありません。
しかし、少なからずそういうイメージを持つ理由はあったように思えます。

それは慶応四年(1868)の戊辰の役の際、新政府に対し仇名す賊軍の巨魁として討伐さたことや、その後も賊徒という冷たい目で見られ、辛酸をなめ続けた会津の人のことをいつしかそう呼ぶようになったのではないかと。

同年八月二十一日猪苗代湖北東の母成峠に板垣退助率いる新政府軍三千が殺到。
それに対してわずか八百の守備隊は兵力と武器の優劣に圧倒され崩壊。
新政府軍は雪崩の如く、若松城を目指します。

二日後、ろう城の準備も終わっていなかった城下は混乱の極みに達します。
(主力の青壮年の藩士達は四囲の国境へ出撃していた為、残っていたのは老人、女性や子供ばかりだった。)
城主松平容保以下約五千の士族(うち婦女子六百)は城内に入場しますが、それ以外の五十家族二百三十人の女性子供達は足手まといになることを恐れ、この日のうちに自害しています。
(白虎隊の悲劇もこの日に起こっています。)
そして一ヶ月後の九月二十一日、容保の説得により城を開城するまで、徹底抗戦しました。

最後の将軍徳川慶喜が早々に水戸へ謹慎してしまった為、薩長の倒幕派は維新革命の最大の生贄として会津藩主松平容保を選ぶのは当然でした。
しかし、文久二年尊皇攘夷でテロの吹き荒れる京都の治安を回復する為に、やむなく守護職を拝命した容保に何の罪があったというのでしょう。
池田屋事件をはじめ、多くの志士を斬った新選組を配下にしていたからでしょうか。
元治元年(1864)の禁門の変では薩摩も共に長州と戦っているというのに。

聡明な容保は自分が京都守護職を受けた時点で、会津藩を滅ぼすかもしれないということはある程度想像できていたかもしれません。
それでも、固辞し続けていた守護職を拝命せざるを得なかったのは、松平会津の藩祖保科正之が作成した「家訓」があったからに違いありません。
この家訓は会津藩が戦争に負け、領地を没収される日まで藩主と藩士達全ての精神的支柱であったのは言うまでもありません。
全十五条の最初に
「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以って自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」があります。
すなわち、徳川将軍に対しての忠義は他の藩と同じ程度ではいけない。もし、これに逆らうような会津藩主が現れたら決して従ってはいけない、という意味です。

どんなに守護職拝命を固辞し続けても、最後にはこの家訓があったために受けざるしかなかった。藩の重臣達も容保が、この家訓に従うという覚悟を固めた以上、止めることはできませんでした。

会津藩はこの家訓による徳川家の藩屏となることを、頑なまでに守ろうとした為に滅びの道を進むという悲劇に見舞われたのです。
本来、将軍家の一番の頼みの綱であるべき御三家(尾張、紀州、水戸)ではなく。

明治三年(1870)、新政府に領地を没収され、津軽十南への転封を命ぜられます。
この時2800戸15000人が移住しました。23万石の城地を失い、3万石(実質7千石)へ。
しかも、当時は不毛な土地であった為、この移住は凄惨なものでした。それでも藩士家族は稗、粟、豆、仕舞いには犬の死骸を食べてまで耐え続けました。現在も地元には「会津ゲダガ」「会津のハドザムライ」などの伝承が残っている程です。(ゲダガは毛虫の事、山菜や豆ばかり食べていたため。)

作家司馬遼太郎は「幕末の会津藩がなかったら、僕は日本人を信用できなかった。」と述べています。
太平の世が過ぎて、失われつつあった士魂と義は会津藩によって何とか面目を保つことが出来たわけです。

「坊っちゃん」が発表された明治三十九年(1906)は維新の革命もすでに昔ではありましたが、まだまだ薩長の勢力が残っている時代でもありました。
会津の人々の精神とその行動を美しいと、声を大にして言うのは出来ないことではなかったかもしれません。ですが、彼らが自らの規範を決して曲げようとしないその美徳に対しては、言葉を換え「強情っ張り」と称したのはこうした訳があったのだと一つには思います。

そして現代においては、会津藩の歴史こそ私達日本人が常に心を揺さぶれ、滅びることを知りながらも忠節心は失わなかったと語り継ぐことが出来る唯一の土地であるとも言えるでしょう。


参考文献:「保科正之」中村彰彦著、「ある明治人の記録」石光真人編著

「強情っ張り」・・・自分の考えを強く主張して、他人の意見を聞き入れないこと。そういう人やそのさま。


昭和三年(1928)、容保の四男恒雄の長女勢津子が大正天皇の第二皇子秩父宮雍仁親王に嫁ぎます。この時こそ、本当に会津の人々が賊徒という目から解放された瞬間だったのではないかと思えるのです。

鶴ヶ城


真田幸村の墓 [史跡]

 平成7年(1995)の毎日新聞日曜版に楠戸義昭氏が連載していた「戦国女系譜」の中で大阪夏の陣で戦死した真田左衛門佐信繁(幸村)のお墓(供養碑)が宮城県白石市に遺されてるとあり、私は驚いたものです。

 何故陸奥の白石にお墓があるのか。そして、ぜひ訪れてみたいと思うようになりました。

 真田信繁といえば夏の陣の際、決死の突撃で徳川家康の本陣まで攻込み、旗本勢を蹴散らしながらも力尽きましたが、その勇猛さから真田日本一の兵とまで呼ばれるようになった事で有名です。

 ですが、嫡男大助も豊臣秀頼と共に自害した為その血統は絶えたかのように思われがちです。

 しかし、事実は夏の陣決戦前夜に信繁の依頼で伊達政宗の重臣片倉重綱(後の重長)に次男大八と3人の娘子を託した事は知られています。

 3人の娘子の一人阿梅は後に重長の後妻となり白石城下に集まってきた真田の遺臣をまとめたと言われています。

 又、大八は徳川家の捜査が伊達藩に及んだ際、すでに死亡したという嘘の報告により保護されました。そして、片倉家の家臣となり、ここに仙台真田家の祖が誕生し、明治維新まで脈絡と続く事になるわけです。

 さて、実際にその信繁のお墓を探しに行った処。(まさしく探しに行ったという表現は的を得ていたと思います。)

 東北新幹線の白石駅から西に白石城が見えます。そこから更に七ヶ宿街道を西に行った途中に片倉家代々の廟所があり、更に道なりに行くと小さな畑が左側に見えるのですが、そこに田村清顕公のお墓という案内板が出ていたと記憶しています。

 田村清顕は伊達政宗の正室愛姫の実父であります。しかし、清顕公亡き後小田原攻めに参加しなかった事を理由に田村氏は豊臣秀吉により所領を没収されてしまいます。そのため、愛姫の請願により跡継ぎの定弘を片倉重長の家来にし白石に定住させました。その定弘に嫁いだのが信繁の3人の娘子の一人阿菖蒲だったわけです。

 互いの家が没落したという二人が夫婦になったというのはちょっと不思議な縁でありますね。そして、定弘によって田村清顕、真田信繁のお墓が白石に建立されたという経緯があるのです。

 お墓までは歩いて草深い山の中の畑道を、藪から蛇がいつ飛び出してくるかと思いながら歩かねばなりませんでした。しかも日没の早い冬の最中だった事から、辺りは暗くなりかけていましたし。こんな処にお墓が本当にあるのかなと思ってましたら、又小さな案内板があり、雑木林の中にお目当ての墓所がありました。

 中央に田村清顕公のお墓があり、その周りに定弘や阿菖蒲のお墓。そして、その後ろに小さく信繁のお墓があります。

 人目につかないような場所にはありますが、清顕公のお墓を中心に寄り添うように建てられてるその墓所には、どこか家族団欒という雰囲気が伝わってきます。

 田村氏にしろ真田氏にしろ再興はしましたが、一度は没落の憂い目にあいました。しかし、当時の人達の『名跡は決して絶やさない。』という強い思いがあったればこそ、こうしてこの墓所で一族が一緒に眠る事が出来るわけです。(田村氏の名跡を継いだのは愛姫の遺言により二代藩主伊達忠宗の3男宗良であります。)

 そんな思いが伝わってきたのか、私は戦では敗者になった信繁も、ここでは家族に囲まれ安らかな時間を過ごしているんだろうなぁという思いになれました。

 冬だったので、蛇が藪から出てくるわけないと気づいたのはかなり時間が経った後でした。それでも墓所まで辿りつけて本当に良かったと思いました。

補 サイト等で調べると、現在の田村清顕公の墓所は私が訪れた頃より整備されているようです。藪を掻き分けて探すような必要はないと思われます。

 

 

白石城