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桐生大炊介祐綱 [人物]

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父方の郷里である群馬県桐生市の山間部にある日枝神社(神社といってもかなり小さな社ではあるが)には、それは見事なクスノ木が4本茂っています。
この楠の木は群馬県の天然記念物に指定されているだけあって見る者を圧倒します。

その紹介文には「この神社は、平安末期に桐生氏始祖六郎が桐生入部のときにその守護神である近江国日吉神社の分霊を勧請したのに始まり、南北朝期の正平5年・観応元年(1350)桧杓山城を築いた桐生国綱が神祠を建立し、神木としてクスノキ5本を献じたと伝えられる。よって社号を挿御殿山王宮と称した。その後延文五年(1360)社殿を桧杓山の東山麓に移し、里人の崇敬も厚かった。明治五年(1872)に社号を日技神社と改めた。」とあります。

その記述の通り、日枝神社は南北朝~戦国末期までこの地を納めた豪族桐生氏の居城であった柄杓山城の大手門前であったとされる場所に植えられているのです。
なお、平安期に入部した桐生六朗と南北朝期の桐生国綱の血筋は別系統であるとされてます。国綱は佐野氏(栃木県佐野市唐沢山城を居城)を本家に持ついわば分家であるというのが定説になっています。そのため桐生六郎を前桐生氏、国綱を後桐生氏と区別しています。

後桐生氏の代々の領主の中でも特に傑出していたのが九代祐綱(1512~1570 助綱とも書かれる事あり)であり、その領土を最大に拡げ、北関東の雄と呼ばれた程でした。祐綱は近隣の諸豪族にも一目置かれ、領民にも大層慕われていたとされています。

永禄四年(1561)には関白近衛前久親子が上杉影虎の推挙により入城をしているという記録がある程です。たかが北関東の一豪族にすぎない桐生氏の下に公家衆最高位の関白が訪れたというのは、伝承とはいえその信頼の厚さを物語っていると言えるでしょう。

あの上泉信綱も主家である長野氏が亡んだ後の一時期、祐綱を頼り柄杓山城に身を寄せていたという事です。

ですが、残念なことに当時の記録である「関八州古戦録」等にはその名前が幾度も登場する祐綱ですが、実際にこの地でどのような施政を施していたかという記録はほとんどありません。

祐綱には跡取りがいなかった為に、本家である佐野昌綱の実弟親綱を養子として迎えます。
この親綱の代に金山(現群馬県太田市)の由良成繁によって桐生氏は滅ぼされてしまいました。

天正十七年豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条方であった由良氏もその責任を追求され常陸牛久に転封させられてしまいます。
その後、関東に入部した徳川家康により桐生は直轄地とされ、明治までお殿様のいない天領として存続しました。(一時期、館林藩に含まれていたこともある)

城好きの私としては、自分の郷里に城郭が無かったのは甚だ残念ではあります。
それゆえ、この日枝神社のくすの木には一層愛着があるのです。

現在柄杓山城址には史跡と呼べるようなものは何一つありません。
山頂に桐生氏の碑文が無ければ、ここにかつて城があった等とは誰も気付かないでしょう。

春になると、山一面に桜が咲き誇る柄杓山はハイキングコースとして、休日には多くの人が訪れています。
短いコースではありますが、今ではハイカー達を大クスノ木が見守っているのです。
由良氏がここ攻めた時、最大の激戦地だっとされる大手門のクスノ木は永い歴史の浮き沈みも目にしてきたわけです。

私はここを訪れる度に誇らしい気持ちになれます。
なぜなら、由良氏が牛久へ移る際、侍であることを捨て土地に土着した旧桐生氏の家臣達が少なくなかったということ。
それは、何度となく施政者が代わろうとも、土地の呼び名が彼らによって守られてきたという証でもあるからなんです。

現在も郷里が桐生と呼ばれている由縁を、私が誇らしく思うのは言うまでもありません。

柄杓山城址(城山)


直江山城守兼続 「愛」の一文字にこめた想い [人物]

今私の手元に「歴史読本」の1998年8月号があります。

その巻頭に山形県米沢市と新潟県六日町の有志の方達で「直江兼続」の生涯をNHKの大河ドラマにする会を結成したという記事が掲載されていました。

2009年大河ドラマの主人公がこの直江兼続でスタートする事が決まっています。つまり結成から11年してようやく悲願を達成できたという事で、本当に良かったと思います。

それにしても11年というのは。簡単に大河の主人公を決めるというわけにもいかないのでしょうが、ずい分時間が掛かるものなのだと思った次第です。(あくまで推測ですが、全国各地から地元の武将を主人公にと、推す動きが多くあるのだと思います。採用されれば地場産業にとって非常に有益となるのは以前にも書いたとおりです。)

私にとって兼続を強く印象付けたのは隆慶一郎著「一夢庵風流記」を読んでからでした。それ以前にも司馬遼太郎「関が原」や藤沢周平「密謀」を読んでましたが、この作品以上に印象的な兼続にはまだ出会っていません。直情的な主人公前田慶次郎とは対照的に、常に冷静沈着でありながら確固たる義の武将として描かれてます。読後いわゆる非常に「いい男」としてのイメージが直江兼続に出来てしまい、それは今日も変わっていません。

実際にはどうであったのでしょう?と前記した「歴史読本」は直江兼続の特集だったので熟読したり、何年か前には山形県米沢市の上杉神社での宝物展を見学に行ったりしてみました。

上杉神社に収められている数々の宝物品の中で、なんといっても一番印象的なのは兼続が着用していた「愛」の一文字を前立にした兜です。普通戦国武将の兜といえば、敵を畏怖させるような拵えにするものなのでしょうが。この一点を見ただけでも兼続が普通の武将と異なる範疇にいる事が判ると思います。

通説ではこの「愛」はloveの意ではなく、当時の武将達が信仰した愛宕権現や愛染明王から取ったとされています。しかし、仮に国や民を愛するという意味で見た時、私が持つ上杉家執政直江兼続のイメージと合致してしまう事に気づきます。

何故なら、国とは当然上杉家の事。時の天下人豊臣秀吉から「山城守」や米沢30万石の贈与と何度も自分の家来になるように薦められていますが、決して上杉景勝の下を去るような事はありませんでした。

又、関が原後に会津120万石から米沢30万石に減封。上杉家では家臣達の出処進退は自らに任せたにも関わらず、去った者は2割程度で六千騎の家臣が残りました。家族や郎党を含めると約3万人。当時の米沢は3千人が住むのが精一杯な城下町でした。当然住む場所はおろか食べ物や水さえ足りない。そこで兼続は城下町に入りきらない下級家臣団を郊外に住まわせ屯田兵とし、開墾に従事させました。(彼らは後に原方衆と呼ばれる郷士軍団となります。)そして、新田開発、生活・農業用水路の新設、白旗松の植林、金銀銅山の開発、青苧(衣服の原料)や漆・綿の栽培。国造りのために出来る事を全て奨励したのです。

もちろん武の上杉家ですから武芸の向上も積極的に奨励しました。郊外に住む原方では町毎に武芸所を造らせ鍛錬するように指導。そして、上杉家は多くの名のある武芸者を招聘した事でも有名です。前述の前田慶次郎もそうですが、新陰流の上泉伊勢守信綱の直孫にあたる上泉主水泰綱もその一人です。(慶長5年((1600))長谷堂城の戦いで戦死。その後も米沢藩の家臣として上泉家は続き、伊勢守信綱生誕500年祭には子孫の方が米沢から駆けつけてくれています。)

又、兼続は側室を持ちませんでした。これは正室お船の方と生涯に渡って仲が良かっただけでなく、彼女が才媛で兼続を内助した賢夫人であったからだという事です。(ここは大河ドラマのポイントとなるでしょうw。更に景勝の唯一の実子定勝の生母が若くして亡くなった為、以後母代わりとなり養育したのがお船の方でもありました。)

兼続とお船の方の子供は全員若くして死んだ為、兼続の死後直江家は断絶します。これは上杉家の減封に対する責任や知行を返上する事で少しでも藩財政を助ける為に意図的であったとされています。(藩財政を助けるといっても、意図的に名跡を絶えさせるというのは当時の人達の常識からは逸脱しているといっても言いかもしれません。家を続かせるという事自体が自分の命より重い時代でありましたから。)

兼続が上杉家の為に行った政策の数々、他にもまだ書き切れない程あります。しかし、あくまで想像の域を出ませんが以上の事からもこの「愛」の一字は紛れも無く慈愛の意も込めていたと思えます、いや思いたいです。

現在も米沢市を流れる最上川には兼続が築かせた直江石堤が公園として保存され、秋には芋煮会の会場として賑わってるそうです。生まれ故郷の六日町と国造りに力を尽くした米沢市の方達にとっては紛れも無い英雄でありましょう。10年の長い時間を掛けてでも、自分達の誇れる人物を全国に知ってもらおうと尽力し続けた事には本当頭が下がります。

私もこのblogを書く為に兼続の事を今まで以上に勉強しましたが、その結果以前にも増して「いい男」度は上がってしまいました。これは来年の大河ドラマは本当に期待出来そうですよ。

 

上杉神社