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桐生六郎は不忠の臣か? [人物]

 前回のblogを書くため、以前から集めておいた資料を読み直したり、サイトを調べたりと。随分時間も掛けた事ですから、桐生氏の歴史についてもう少しまとめてみようと思います。

 桐生氏の名が初めて文献に登場するのは「平家物語」「源平盛衰記」です。しかし、前桐生氏の歴史のあらましを知るには鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡」による処が大きいです。「吾妻鏡」自体は北条氏によって書かれたものですから、時に鎌倉幕府の都合の良い内容に偏ってる為、一級の資料とは扱われてません。

 地名に関してはそれよりも以前からあったようです。あくまで伝承の域を出ませんが、霧の発生しやすい場所だったので「霧生」から派生したとか、桐の木が多く分布していた為とも伝えられています。

 さて、「吾妻鏡」に記されている桐生氏(六郎)の箇所はそれ程多くはありませんので、肝になる部分を最初に抜き出してみると、

 養和元年(1181)九月十三日:和田の次郎義茂が飛脚、下野の国より参る。申して云く、義茂未到の以前、俊綱専一の者桐生の六郎、隠れ忠を顕わさんが為、主人を斬りて深山に籠もる。捜し求めるの処、御使いの由を聞き、始めて陣内に入来す。但し彼の首に於いては、持参すべしと称しこれを出し渡さず。何様に計らい沙汰すべしやと。仰せに云く、早くその首を持参すべきの旨下知せしむべしてえり。使者則ち馳せ帰ると。

 同年九月十六日:桐生の六郎俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路より、使者を梶原平三が許に立て、案内を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。次いで実検を加えらるべきに依って、俊綱が面を見知るの者これ有るかの由尋ね仰せらる。而るに只今祇候の衆は、合眼せざるの由これを申す。爰に佐野の七郎申して云く、下河邊の四郎政義常に対面を遂ぐと。これを召さるべきかと。仍って召し仰すの間、政義実検を遂げ帰参せしむ。申して云く、首を刎ねて後日数を経るが故、その面殊に改め変ぜしむと雖も、大略相違無しと。

 同年九月十八日:桐生の六郎梶原平三を以て申して云く、この賞に依って御家人に列すべしと。而るに譜第の主人を誅すこと、造意の企て尤も不当なり。一旦と雖も賞翫に足らず。早く誅すべきの由仰せらる。景時則ち俊綱が首の傍に梟けをはんぬ。次いで俊綱遺領等の事、その沙汰有り。所領に於いては収公す。妻子等に至りては、本宅・資財の安堵せしむべきの旨これを定めらる。その趣を御下文に載せ、和田の次郎が許に遣わさると。下す 和田の次郎義茂が所俊綱の子息郎従たりと雖も、御方に参向する輩を罰すべからざる事 右子息兄弟と云い、郎従眷属と云い、桐生の者を始めとして、御方に落ち参るに於いては、殺害に及ぶべからず。また件の党類等が妻子眷属並びに私宅等、損亡を取るべからざるの旨、仰せらるる所下知件の如し。      治承五年九月十八日

 簡単に要約しますと、下野国に勢力を持つ藤原姓足利俊綱(平氏方)を主君とする桐生六郎は、平家討伐の挙兵をした源頼朝の軍に対して主人俊綱を斬ったので、その首を頼朝に持参し恩賞として御家人として取り計らって欲しいと申し出ます。頼朝は譜代の臣が主人を斬るとはいささかの賞にも値しないと六郎の首も刎ね、俊綱と六郎の首を共に晒したという内容です。

 自分に縁の深い人物が歴史に初めて登場したというのに、いきなり逆臣の汚名を着るというのはかなり心痛い思いがありますが、これは仕方ない事です。

 ですが、私としては桐生六郎を逆臣と断定する前にもう少し掘り下げてみたいと思います。

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