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適々斎塾 [史跡]

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お正月から始まった新番組で若き日の緒方洪庵の活躍を描いたドラマが放送されているそうです。

私自身はドラマもその原作も一切不勉強なのですが、あえて一言述べるなら、

「とうとう緒方洪庵までドラマの主役に引っ張り出されたのですね~。」と、これが率直な感想であります。

それでも、大阪今橋にある適塾を見学した時の感動は今も忘れません。

オフィス街のまん中にある塾の遺構は江戸時代にタイムスリップでもしたかのような錯覚を覚えます。
よくも、この小さな家屋が戦災を逃れて今日まで当時のままの姿を見せてくれるとは、保存に尽力した方々にも頭が下がります。

さて、適塾の見学ルートは入り口から玄関に入るとすぐに塾生達が蘭書の会読を行っていた教室が二間あります。そこから中庭の淵を渡りながら緒方洪庵と家族が生活していた居住スペースへと続きます。書斎、応接室、客座敷、そして納戸がそのほとんどを占めてしまっているので、家族はとても狭い一部屋で暮らしていた事がわかります。ここに洪庵が家族の犠牲を強いながらも、如何に教育に力を尽くしていたかという事をうかがい知ることが出来ます。(注1)

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『2階大部屋から見る緒方家母屋。』

中庭の反対側には家族と塾生が共同で使用していたと思われる台所があり、そこから2階に上がると女中さんの部屋、そして塾で一冊しかない蘭和辞書が置かれていたヅーフ部屋、その奥に塾生達の大部屋があるといった構成になっています。(注2)

当時全ての塾生が泊り込んでいたのかは判りませんが、洪庵の家族共々随分窮屈だったであろうと見学しながら思いました。もっとも当時の人達と現代の私達とでは個人が部屋を占有するという感覚には天と地ほどの差があったでしょうが。

緒方洪庵という人は天然痘の予防のために種痘所を作り、九州から北陸における病気の蔓延を防ぐ事に力を尽くした事や死の前年の文久2年(1862)に幕府の奥医師兼西洋医学所頭取に召しだされた等から医術の人と思われがちです。事実医者である事に間違いはないわけですが、洪庵自身が目指したものは医術により病の人を治療すると同時に、洋学研究者として外国の新しい技術を鎖国によって立ち遅れた日本に広く紹介したいという事だったのではと私は思います。

それは適塾の創設もそうですが、塾生達への教育方法にも現れています。

塾での学習のメインは蘭学書の会読だったそうなので、前述した蘭和辞書ヅーフ本を塾生達が奪い合うように勉強したという事です。この辞書が置かれていたヅーフ部屋は女中部屋と大部屋の間にはさまれたとても狭い一室です。この書でしか予習や復習をはじめ、その他の蘭学書を理解する事が出来ないわけですから、小さな一部屋でそれは目をギラギラさせて勉強する塾生達の姿が想像できます。福澤諭吉は当時を「凡そ勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と回想しています。

このように、教育を単に与えるといった方法ではなく、西洋への好奇心旺盛な塾生達が得たい知識を自らの力で得ようと努力させた事が後に大きな成果を挙げたと思われます。

この塾から卒業していった人達の進んだ道が決して医学だけではなく、大村益次郎のように陸軍の創設や橋本左内のように政治活動、そして福澤諭吉であれば教育に力を注いだように多岐にわたるのは、おそらくこのヅーフ部屋で喧嘩腰になりながらも、知りたい知識を自らで得なければならないという環境に置かれたことで、やがて自分に出来る事は何なのか、何をすべきなのかに気づく事が出来たからではないでしょうか。現代の私達から見れば、ある意味それはとても幸運な事であったに違いありません。

私は現在の教育に関して意見を述べる立場にはありませんが、少なくとも教科書や先生からの一方的な方法だけでなく、生徒が学びたい事を自ら求めるような教え方も他方で大切なのではと考えます。

大阪には天下に名立たる大阪城という史跡がありますが、それに負けず劣らず小さな適塾での見学は素晴しい時間を持てたと思います。

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天井が低く、息が詰まりそうなヅーフ部屋で洪庵の業績と塾生達に思いをめぐらせていたら、この部屋に明治の日本が羽ばたいた出発点があったと私には確信出来ました。

注1:それでもトイレだけは家族用のが別に用意されていました。

注2:ヅーフは長崎オランダ商館館長で、彼が蘭仏辞書を翻訳した蘭和辞書をそう呼んだ。当時は極めて貴重で適塾にも1冊しかなかった。


新選組総長 山南敬助 [人物]

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新選組副長の土方歳三は自らを豊玉と号し、俳句を趣味としていた事は良く知られています。

その彼が文久3年(1863)2月8日、浪士組として京へ上る前に郷里の日野に四十一首の句をまとめた豊玉発句集を残していきました。内容に関しては賛否両論ありますが、鬼の副長というイメージではない、青年歳三を知る上での大変貴重な資料である事は云うまでもありません。(注1)

私は以前からその句集の中で気になってしかたない一首があるのです。

「水の北 山の南 春の月」

一見すると心地よい春の月夜を詠った何の変哲もない句のようですが、これが歳三が創ったものとなると見方も変わってきます。

「山の南」=山南敬助、と読めなくはないでしょうか。(注2)

句集に入れたくらいですから、歳三自身かなり気にいった一首だったに違いありません。と言っても特に山南敬助を意識して選首したわけではないのでしょう。なぜなら、友人の事を詠んだ句はこれ以外はありません。意識したのであれば、近藤勇や沖田総司の句があってもいいはずです。自分としてはかなり良く出来た一句だったいうのが選首の理由なんでしょう。

山南敬助は仙台伊達藩出身の浪人だと自称しています。江戸に出府し北辰一刀流の免許皆伝を得た後、近藤勇の試衛館に入門。そして、近藤や歳三らと同じように彼も自らの夢を抱いて浪士組に参加します。いや、むしろ試衛館の面々の中で誰よりも一番当時の日本を憂いていたと思えますから、熱い想いを胸に秘めていたに違いありません。(注3)(注4)

しかし、京は彼が夢に描いていた場所にはなりませんでした。攘夷の旗印の下、壬生浪士組を立ち上げたにもかかわらず、自分達がしている事といえば、不逞浪人の取締りばかりです。商家を襲う輩もいたとはいえ、その者達も言ってみれば山南と同じ尊王攘夷を志す志士であったのですから。

山南は自身と同じ志を持つ者を斬らなければならない矛盾に大変傷ついた事でしょう。何より近藤以外の試衛館の面々には上洛前から思想的な意識は希薄だった事もあり、浪士組としての活動に何ら支障をきたす事なく精勤していたようです。そのために、浪士組を抜けようにも抜けられないジレンマに陥り、京での日々は山南にとって苦痛以外の何物でもなかったでありましょう。

文久3年9月16日、同じ浪士組の芹沢鴨の暗殺に山南は参加しています。これ以後、近藤勇を中心とする試衛館派によって新選組は統率されます。と同時に彼の局内の公式記録も、その死の時まで一切姿を消してしまうのです。

現在、小説やドラマでは必ずといっていい程取り上げられる「山南敬助の脱走~切腹」は新選組を語る上では欠かせないエピソードではあります。が、この元治2年(1865)2月22日に彼が隊を脱走し局中法度により切腹したという記録は、その58年後の大正2年(1913)に永倉新八こと杉村義衛が自身の回想を小樽新聞の記者によってまとめさせた「新撰組顛末記」(旧題;新撰組永倉新八)により初めて世に紹介されたのです。ところが、平成10年に高知県で発見された明治初期に永倉自身が著した「浪士文久報国記事」の中では山南の死に関しては一切書かれていないのです。

大津まで彼を追い、隊へ連れ戻しその後切腹の介錯をしたという沖田総司が1ヶ月後の3月27日付で日野の佐藤彦五郎に宛てた手紙には「山南兄去甘六死亡仕候間、就而なから一寸申上候。」と軽く流すように書かれていて、死の原因については何ら明らかにしていません。(この前後、同様に日野へ出された近藤・土方の手紙にも山南の死については書かれていません。)

一方、新選組参謀の伊藤甲子太郎は彼の死へ「山南氏の割腹を弔うて」とし四首の和歌を捧げています。その中の一首「吹く風にしほまむよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし」は近藤・土方の新選組運営に対して自身の信念を曲げてまで佐幕派路線に従うを良しとはせず、死を以って自分は勤皇の士である事を体現した山南を暗に讃えているとは詠めないでしょうか。つまり、ここにも隊規違反で死を命ぜられたという雰囲気は微塵にも感じられないという事です。

更に、それを裏付けるように当時西本願寺の寺侍であった西村兼文が明治22年(1889)に著した「新撰組始末記」で山南の死について「憤激ノ余り一書ヲ遺シ丑三月下旬終ニ自刃ニ臥ス」と書いています。新選組屯所を西本願寺に移転する問題で土方と山南が対立していた事は良く知られています。土方の強行で移転は決定してしまうわけですが、当地に詰めていた西村ゆえに事の真相は把握していたに違いありません。その文章からは隊の約に違えた事からの切腹というニュアンスは一切感じられません。むしろ、自らの意見が取上げられなかった事で面子を潰され、衝動的に自害したと読む方がしっくりくると思われます。

ここまで書いてくると、山南が隊を脱走し沖田に連れ戻されたという事はともかく、局中法度で切腹したというのは、後世創作された作り話だと推測せざるをえません。(注5)(注6)

思うに、ほとんどの隊士達は新選組に夢を賭けて入隊してきたはずです。夢を実現した者もいれば、破れた者もいました。しかし、彼ら全てがその瞬間瞬間には熱い想いを持って行動したに違いありません。けれど、山南敬助だけは別であったろうと思います。

勤皇の想いを胸に攘夷を志すつもりで京へ上った彼にとって、新選組という組織自体を否定せざるを得なかったと思うのです。試衛館時代の友人達を裏切る事も出来ず、鬱屈した日々を過ごす彼がとった人生の締め括りが自害であったいうのは、例えそれが体勢へ自身を訴える最後の手段だとしても悲しい結末ではあります。

屯所のあった壬生村で山南は子供や女性達から人当たりが良いので大変人気があったいう逸話が残っています。実際、彼の人間性が悪く書かれている史料は皆無といっていいほどです。おそらく、そんな彼の人柄を歳三も春の月に見立てて、

「私がまだ見た事もない(みず) 北の仙台から出て来た山南敬助は 春の月のように爽やかな男だよ」

と詠んだのに違いないと私は思うのです。

 

* 写真は鮮血に染まり、折れてしまった山南の愛刀赤心沖光の押し型。大阪高麗橋近くの岩木升屋に押し入った不逞浪士を山南が斬った事で会津公より恩賞を賜った事が記されている。この手紙は東京都町田市の小島資料館で見学することが出来ます。(ただし、複写品。)

注1:現在、豊玉発句集は日野の「土方歳三資料館」に収蔵されています。

注2:新選組研究の第一人者である伊藤成朗氏をはじめ多くの方が、この句が山南敬助を詠ったものであると書いています。

注3:一般に山南は「やまなみ」と呼ばれているようですが、残されてる史料には「三男」や「三南」と記されている事から「さんなん」というのが正確な読み方ではないかとも云われています。どちらにしても、「山南」姓は伊達藩の上中家士名簿には見当たらない為、下級藩士出身であろうと考えられています。

注4:北辰一刀流の祖千葉周作は水戸藩の徳川斉昭公の依頼で水戸での出稽古が評判を呼び、江戸の道場も在府の水戸藩士が多く入門しました。その為に道場では尊王攘夷思想がどこにもまして強く、水戸藩士以外の門弟達も勤皇に感化されたようです。この流派の出身者には清川八郎や坂本竜馬等幕末に名を馳せる多くの志士がいます。

注5:池田屋事件の前後、後に御陵衛士となる阿部十郎が近藤勇に反発して隊を脱走しています。しかし、同じく後に副長助勤となる谷万太郎の縁から復帰し伍長にまで昇進しているのです。この事から「局を脱するを許さず」という局中法度自体の存在が疑わしいのと、あるいは法度が近藤らの都合で適時運用されていたのではないかとも考えられています。どちらにしても、阿部が復帰したのは山南の死後であった事から考えても、法度に背いての切腹という永倉の「新撰組顛末記」記述の信憑性には疑問を挟む余地があると思われます。

注6:佐藤彦五郎と共に新選組を江戸から支えた小島鹿之助は明治2年(1869)に近藤と土方を称える書「両雄士伝」を書き残しています。その中でも山南の死については「有故昌宣使其自儘、年三十有三。」(訳あって近藤に切腹を命ぜられた。)と、いとも簡単に書かれてるに過ぎません。小島は試衛館時代に近藤の代理として出稽古に多摩を訪れた山南とは特に親しく交流したとされています。それがこの簡潔な表現に留めたのには、近藤・土方を称えた書にそぐわないとして真相を書く事が出来なかったと推測するしかありません。

また、新選組伍長の島田魁が維新後書いた「島田魁日記」にも山南の死に関する記述はありません。この件からも山南の死を書かなかったのではなく、書けなかったと解釈する方が自然ではないでしょうか。「浪士文久報国記事」の永倉にとっては試衛館時代からの友人の死であり、島田にとっては新選組結成時からの幹部の死という大事件に関して書き忘れるという事は到底ありえません。意図的に書かなかったとする方が納得がいきます。とすれば隊規に反した処罰による死なのか、それとも組織の体制に対する抗議として自らの信念を体現した死なのか。近藤・土方の取った佐幕派路線を一緒に走った二人にとって、後者は山南にとても近いポジションにいただけに書き難かったに違いありません。それは山南敬助という友人を、新選組を否定して死についた人物として後世に書き残したくない、誰の目にも触れて欲しくない事件だったからだと思われるのです。「サンナン」さんとして、そっとしておいてあげたかったからなのではないでしょうか。


新選組副長 土方歳三 [人物]

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私は自宅ではあまりTVのドラマやバラエティ番組を見るということがありません。

その為、友人や仕事先の同僚達との間でそれらの話題になると、これはもうほとんどついていけないわけです。

そういう時は大抵、ウンウン、ホー、そうなんだ~と相槌ばかりうってます。

ニュース以外で欠かさず観ているドラマといえば、NHKの大河くらいですから。

そうなんです。家族の影響からか歴史書や歴史小説を読むことが何より好きになっていたというわけなんです。
履歴書にだって、趣味「歴史」って書いたぐらいですから。

そんなわけで、歴史上好きな人物は誰?と聞かれれば、
「好きな人はたくさんいますが、その中で新選組副長の土方歳三は特に敬愛しています。」と答えると思います。

そもそも、歴史小説を読みだした頃に出会った司馬遼太郎の「燃えよ剣」。
何気に本棚から取出して読んでみたら、もうはまってしまいました。
読むことを途中で止められないんですよ。そして、ラストでは号泣です。
あまりに感動して、しばらく「燃えよ剣症候群」(?)のようになってたことを覚えています。
それ以後、新選組関連の本をむさぼるように読み始めたのが、
私が歴史好きになっていったキッカケでした。

少しづつ土方さんの真実を知るにつれ、
小説のヒーローでない一人の人間として、一層好きになっていきました。
生家のある日野にもお墓参りに行きましたし、函館にも行きました。
どうして、私は彼にそんなに魅かれるんでしょう?

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『会津天寧寺にある近藤勇の墓。松平容保の援助の下、歳三が建立した。奥羽戦役のさなか、友の死を聞かされた歳三の心中はどうであったろう。』

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『JR板橋駅前にある近藤勇と土方歳三の墓。永倉新八の尽力により建立された。墓石の両サイドには粛清や討死にした新選組隊士の名も刻まれている。』

多摩の裕福な農家の末っ子に生まれた彼は子供の頃から侍
(二本差しすることではなく、正規に採用された徳川家臣。)
になりたいと願っていました。
そして、幕末という運命が土方さんを実力と名分と共に直参に押上げます。しかし、それは徳川の時代の終わりをも意味していたのです。
皮肉にもその時代が土方さんを追い詰めていきます。

それでも彼はなびく事なく立ち向かっていき、侍として死んでいったのです。
最後まで一途に自分の名分を立てようとしたその姿、

「美しいと思いませんか?」

私が彼に魅了される一番の理由はそれなんです。

「私の敬愛する土方歳三さん、あなたこそ本物のAlways Stand Straightです。」 


* この投稿は2005年3月に公開された記事を編集し直しました。

* 写真は函館で撮影されたとされるモノです。小姓の市村鉄之助に命じて郷里の日野名主佐藤彦五郎に届けさせた。オリジナルの写真上部には彼の歯型(?)がついているという。

* Always stand straight! とは直訳するなら、姿勢を正しなさい!ですが、そこから誠実にまっすぐ生きなさいという意味があります。私の好きな言葉の一つです。

土方歳三終焉の地碑