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松陰神社宝物殿 愛称「至誠館」と決定 [topics]

山口県萩市椿東の松陰神社に今年10月オープン予定の宝物殿の愛称が、公募の結果「至誠館」に決まった。「至誠」は孟子の言葉をもとに、吉田松陰が生涯を通して貫いた行動理念。(2009.2.27西日本新聞)

「至誠にして動かざる者はいまだこれあらざるなり」(孟子) 誠実さを持って人に接すれば必ず相手は応えてくれる。私自身もいつも心にとどめて置きたい理念の一つですね。松陰は「孔孟余話」や孟子の講義書を著するなどとても研究熱心だったということです。しかし、易姓革命論に関しては反対の立場をとっていたのは云うまでもありません。

至誠館、また一つ私の歴史散歩予定リストに加えておかなければいけないようです。


芥川龍之介ら著名作家の未公開の書簡公開 [topics]

大正・昭和の出版界で活躍した山本實彦へ芥川龍之介ら著名作家11名が送った未公開の書簡を公開した「作家からの手紙」展が、出身地である鹿児島県川内市中郷の川内まごころ文学館で開かれている。3月15日まで。(2009.2.26毎日jp)

山本實彦が大正8年に創刊した雑誌「改造」は幸田露伴や谷崎潤一郎ら人気作家の小説を掲載すると同時に、折からのロシア革命を背景に労働問題や社会問題の記事で人気を博し、当時の言論界の中心的雑誌の一つにまで成長した。しかし、大戦中の昭和17年に掲載した論文が共産主義的であるとされ弾圧された。いわゆる横浜事件により、その2年後に廃刊となりました。

雑誌「改造」は大正11年にアインシュタインを日本に招聘したことや、「現代日本文学全集」を1冊1円で発売し円本ブームを巻きこしたことでも私の記憶に留めていました。


高知城跡のマンション建設計画地を県教委が取得 [topics]

高知城の北曲輪地区にマンション建設計画が進んでいる問題で、高知県教育委員会は史跡拡大のため建設用地を約2億5000万円で買い取ることで業者と合意し、来年度予算案に計上した。(2009.2.25毎日jp)

GJ! この御時世に2億5千万の税金の使い方にはいろいろ議論はあると思います。しかし、私個人が思うには国史跡に指定されている高知城は今後も末永く高知の人だけでなく、国民にとっても誇れるものであることは間違いないと言えます。


タグ:高知城

焼失した狩野探幽の障壁画を復元 [topics]

京都市北区の臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺は昭和41年7月20日の火災で焼失した狩野探幽筆「猿曳図(さるひきず)」の右面を復元した。(2009.2.24京都新聞)

狩野探幽の障壁画、いつかは一般公開してほしいものです。

室町時代に大徳寺は後醍醐天皇の庇護を受けていたことで足利幕府より軽んぜられることになりましたが、逆に権力者からのバックアップを離れることで世俗化し、公家衆、戦国大名、商人や文化人達の幅広い支持を受けて栄えることになったのです。一休さんや沢庵和尚という名僧を輩出すると共に、村田珠光や千利休ら茶の湯文化とも関係が深いのです。


桃山陵墓地 研究団体に初公開 [topics]

明治天皇と昭憲皇太后の陵墓がある京都市伏見区桃山町の桃山陵墓地(約86万平方メートル)が20日、日本考古学協会など考古学、歴史学の十六研究団体に初めて公開された。豊臣秀吉や徳川家康が造営した伏見城の本丸跡など中核部分の立ち入り調査が行われた。 (2009.2.21京都新聞)

徳川家光によって破却された後、伏見城の遺構は各地に移築されました。鳥羽伏見の戦いで薩摩藩が陣を置いた御香宮神社の表門(重要文化財)も伏見城の大手門を移築したものだそうです。


石清水八幡宮欄間彫刻の修復完了 [topics]

「平成の大修造」を行っている京都府八幡市の石清水八幡宮で、本殿などを飾る欄間彫刻の修復作業がこのほど完了した。(2009.2.20京都新聞)

瑞籬の彫刻計59枚は江戸時代の名工左甚五郎の作だということです。左甚五郎といえば、日光東照宮の「眠り猫」や京都知恩院の「忘れ傘」などを思い出しますが、実像よりも講談や落語、更には伝説化した彫刻の評価から虚像が独り歩きしている感があります。実在していなかったという説もあるわけですが、江戸を逃れて庇護された高松藩の分限録にその名があることから実在の人物であることは間違いないようです。修復を機に左甚五郎の真実に迫る発見も見つかってほしいものです。


都からの馥郁たる香り [人物]

まだまだ寒い季節の中ですが、梅の開花を聞くと春の到来を感じずにはいられません。

梅の花と聞くと私は「香の前」という仙台の御香を思い出します。それは梅の香りのする御香であります。以前知り合いの方に焚いていただいたことがあるのですが、この御香は京風の香りに仕立ててあるという事でした。御香の香りも素晴らしかったのですが、私がその時一番関心を持ったのは「香の前」という商品名の由来である一人の女性についてでした。

香の前は豊臣秀吉の側室お種の方であります。当時天下人となった秀吉は有力大名の家臣を直臣にするという引き抜き工作を度々行っていました。大河ドラマの直江兼続もその一人ですし、徳川家康からは石川数正、島津義久からは伊集院忠棟といった具合です。そして、伊達政宗からは片倉小十郎景綱と茂庭綱元に秀吉の触手が伸びました。(注1)

景綱については後日機会がある時に書くとします。もう一人の綱元は天正13年11月17日(1585.1/6)人取橋の合戦(福島県本宮市)において伊達軍が3倍以上の蘆名・佐竹連合軍の猛攻を退けた際、壮烈な討死にをした鬼庭良直の嫡男であります。鬼庭という姓を茂庭に改名させたのは秀吉だということです。(元々茂庭だった苗字を戻させた。)ちなみに茂庭氏の遠祖は平家物語や奥の細道(むざんやな 甲の下の きりぎりす)で有名な斉藤実盛であると称してます。

さて、その綱元が文禄3年(1594)2月文禄の役の最中名護屋城で秀吉から碁の誘いを受けました。この時共に接待したのがお種の方でした。秀吉は綱元に対して自分が負けたらお種の方を譲ると言い出します。言葉には出しませんが、その代わりに綱元が負ければ自分の家臣になれというという意味です。これは綱元も負けるわけにはいきません、お遊びなどではなく戦と同様の決意で挑まねばならないわけです。結果として秀吉に勝つ事が出来たわけで、これ以降秀吉も綱元を引き抜くようなことはしませんでした。そして、約束通りにお種の方は綱元に伴われて奥州へ移り住むことになったわけです。(注2)

お種の方は伏見商人高田次郎右衛門の娘で22歳。一方綱元は政宗よりも18才年上の46歳、24才という年の差夫婦であったわけです。彼女は容姿端麗で話し方は京言葉と当時の仙台ではかなり注目された事でしょう。又、梅の花を愛したことからいつしか香の前と呼ばれるようになったのです。主君政宗でさえ彼女の美しさに魅せられてしまいました。綱元は彼女との間に娘子がいましたが、政宗に差し出したのです。

やがて、香の前は政宗の子供を身ごもり、綱元の元に帰ってきます。こうして綱元の子供として生まれたのが宗根であります。政宗は宗根を伊達家親族の亘理重宗の娘婿として高清水(現宮城県栗原市)に知行地を与えます。宗根と共に香の前も高清水に移り68歳で生涯を閉じるまでこの地で過ごすことになります。(注3)

宮城県登米市にある登米市歴史博物館には香の前が秀吉から賜ったとされる水差と政宗が宗根のことについて香の前に宛てた書状等が収蔵されています。

現在、香の前のお墓は存在していません。高清水中町にある福現寺に、宝暦7年(1757)亘理5代倫篤が佐沼城(現宮城県登米市)に移封したためそれまでの初代宗根から4代定篤までの墓所があった、と亘理家廟所の案内書きに記されているだけです。香の前の法名が安楽院浄譽心清法爾大姉である事から、同じこの地に墓所があったと推測されます。(当時安楽寺があった場所に現在の福現寺があるということから。また、福現寺の本堂が墓所であるとする説もあります。)

御香「香の前」の香りからは優雅な京の佇まいを仙台に持ち込んだ美貌の香の前を想像することは容易に出来ます。しかし、秀吉や政宗に愛されて当時の女性としての幸せは手にしたにもかかわらず、彼女の心象風景の中にはどこか戦国の男達に運命を翻弄された悲しさが隠されているような気がしてなりません。そんな風に考えてしまうのは、やはり価値観が多様化した現代に生きる私だからでしょうか。

 

注1:兼続のように二家に仕えずという人が多かったようですが、石川数正のように一家揃って出奔してしまった例もありますし、伊集院忠棟にいたっては家中の妬みを生み一族が悲劇に見舞われた例もあります。

注2:主君伊達政宗は自分に無断で秀吉から奥さんを貰って来るとはけしからんと、綱元に隠居を命じます。これに反発して綱元はお種の方と共に出奔。数年後帰参を許されています。(一説には政宗がお種の方を譲れと命じたのを綱元が拒否した為とも言われています。帰参を許されたのも香の前を政宗に献じたからとの説も。)

注3:政宗は亘理重宗の嫡子定宗に伊達姓を賜り、一門とし涌谷伊達家の祖としました。後年、定宗の跡を継ぐ次男頼長が寛文11年大老酒井雅歌頭邸で原田甲斐宗輔と対決する伊達安芸宗重であります。一方、政宗と香の前のもう一人の子供が宿老原田宗資に嫁ぎ宗輔の母となる慶月院です。

 

佐沼亘理家廟所