So-net無料ブログ作成

弘道館 水戸藩の精神を現代に復活 [史跡]

 茨城県水戸市水戸城三の丸址にある藩校弘道館で、当時の精神を現代に復活させた学びの場「あしたの学校」が開校した。校長には水戸徳川家15代当主徳川斉正氏が就任。開校式に講話し、「10年、20年先、地域の中心となる人材になってほしい。」と1期生を激励した。(ソース記事:2009.6.29YomiuriOnline)

 現在、国指定重用文化財に指定されている弘道館の正庁、至善堂、正門以外の公園内の建物は後の時代に整備されたものである。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、水戸藩保守党は会津、桑名藩に合流し各地を転戦。会津戦争で会津藩が降伏したことで、再び水戸城下を目指し弘道館を占拠した。しかし、改革派である天狗党がこれを攻撃し、激しい銃撃戦の末に保守派を追い出してしまった。この時に多くの建物が消失し、残った正門や正庁には当時の弾痕が今も残っている。

続きを読む


タグ:弘道館

明治の兄弟-山川家の人々 戊辰の遺恨と和解がテーマの演劇を会津若松の劇団が鹿児島で今秋上演 [史実]

 福島県会津若松市のアマチュア劇団「ぴーひゃらら」が上演する「明治の兄弟-山川家の人々」は会津藩出身の山川浩陸軍大将の妹さきコト捨松と薩摩藩出身の陸軍卿大山巌(弥助)の縁談を軸に、戊辰戦争での互いの憎しみを超えた和解をテーマとした物語である。2007年に初演され、福島県教委の「ふくしまの歴史と文化の再発見 演劇祭」にも選出されたその作品が、今年10月13日に鹿児島県鹿児島市民会館で上演されることが決定した。

 劇団関係者の熱意が鹿児島の人々に受け入れられた形の今回の上演だけに、劇団員たちの稽古にも熱が入っているという。団長で西郷従道役の近藤直宣さんは「まだ実感がないが、夢のよう。生涯に一度だと思って鹿児島の人たちに最高の舞台を見せたい。」と話している。そして、今月27日にスタッフが打合せのため鹿児島入りし、西郷隆盛の墓がある南州墓地を参拝した。弟である従道と従兄弟である巌は西南戦争で最愛の兄に弓を引くこととなり、その後二度と故国の地を踏むことはなかった。二人の想いと共に、スタッフは西郷さんの墓前で上演にかける決意を新たにしたという。(ソース記事:2009.6.23福島民友新聞、2009.6.28南日本新聞)

続きを読む


最上義光 古文書の中から晩年の印判状を発見 [人物]

 初代山形藩藩主最上義光が出したと思われる書状を2点発見したと、山形大人文学部の松尾剛次教授が今月26日発表した。鶴岡市立図書館に寄贈されている真田玉蔵坊文書を整理している途中で古文書の中から発見されたものだという。いずれも出羽少将名義の自筆ではなく右筆に書かせたもので、慶長17年(1612)6月4日付けの羽黒修験の代表者や肝煎への年貢率や仕事を認める内容であり、もう1点に関しては詳しい内容は判っていない。(ソース記事:2009.6.27山形新聞)

 書状に「出羽少将」という名義があるのは、慶長16年に義光が左近衛少将と出羽守を叙位・任官しているからである。この年、徳川家康の駿府城新築祝いのために上府した後から体調を崩したといわれている。また、それまでに残されている書状の多くが右筆を使わずに本人自筆のものであることから、新発見の書状においても義光の体調がすでに良くなかったことが伺える。

 おそらく、残された人生の内に山形藩の将来を確固たるものにする事が義光の心の多くを占めていたに違いない。翌年の慶長18年には重い体に鞭を打ち、江戸の将軍秀忠、駿府の家康に謁見し最上家の行く末を願っている。

続きを読む


軍艦島 強制連行という歴史の影を検証する [史跡]

 今年4月に上陸が解禁された長崎県端島は、現在世界遺産登録に向けて準備を行っている。しかし、「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」の高実康稔長崎大名誉教授は「世界遺産に登録するのであれば、強制連行は避けて通れない話だ。」とし、教授が委員を務める長崎市の市民団体「『浦上刑務支所・中国人原爆犠牲者追悼碑』維持管理委員会」(代表・本島等元同市長)が7月6日に筑後町教育文化会館でシンポジウム「検証・軍艦島の実像」を開催する。(ソース記事:2009.6.27西日本新聞)

 昭和20年当時、端島は約5300人の人が居住していた。(島の面積約6.3haに対して約84127人/平方km²という過密な人口密度であり、これは東京23区の6倍以上にあたる。)この中には多くの中国人、朝鮮人労働者が含まれていた。敗戦後の島内には中国人約200人、朝鮮人約500人が在住していた記録が残っている。

続きを読む


タグ:軍艦島

八海山 「天地人」効果で登山客が急増 [topics]

 大河ドラマ「天地人」のオープニングで直江兼続扮する妻夫木聡さんが山頂に立つ山が新潟県南魚沼市の海抜1778mの八海山である。ドラマ放映開始直後より観光協会に「あの山はどこにあるのか?」という問合わせが相次いでいた。4月以降ロープウェイで4合目まで上がる観光客が急増していたが、今月28日の山開き以降は頂上を目指す登山客が増えそうだ。 (2009.6.19新潟日報)

 日本二百名山に数えられる八海山はロープウェイを降りた後、2時間半くらいの登坂で頂上である入道岳に着くことが出来る。決して安易な気持ちで行けるような山ではないが、天気が良ければ頂上からは上田庄はもちろん日本海まで一望出来るそうだ。気分はそれこそ妻夫木聡、もとい直江兼続である。

続きを読む


全国山城サミット 2012年魚津市が松倉城址に誘致を計画 [史跡]

富山県魚津市は2012年に市制60周年を迎えるにあたり、その記念事業として「全国山城サミット」を誘致する方針を決めた。県内でも初となるだけに、市教委も「魚津にある城を全国にPRしたい。」と話している。(2009.6.25YomiuriOnline)

1994年兵庫県和田山町(現朝来市)の竹田城を第1回とし、今年10月に滋賀県安土町の観音寺城で16回目を数える「全国山城サミット」。現在、加盟自治体は75、加盟城郭は109にものぼる。2007年には全国山城サミット連絡評議会が監修した「戦国の山城」(学研)という書籍も発売されている。 

続きを読む


本居宣長 直筆書簡が京都で発見 [人物]

京都の古美術店で江戸時代の国学者本居宣長の直筆書簡が発見され、松阪市殿町の本居宣長記念館で購入。近く一般公開する予定である。(2009.6.24YomiuriOnline)

本居宣長が「古事記」を解読した「古事記伝」は現代においても、多少の訂正はあるものの基本的には当時の注釈書が現在もそのまま使用されている。また、邪馬台国九州説を唱えていたことから、現在まで続く邪馬台国論争の火種を作ったのも宣長である。

続きを読む


タグ:本居宣長

磐城平城 風化しつつある歴史遺産に再び光を [史跡]

戊辰戦争では奥羽列藩同盟に組したため、新政府軍の攻撃により落城した磐城平城(現福島県いわき市)。現在は大部分の跡地が宅地化し、堀や石垣の一部が往時の面影を残すだけとなっている。この歴史遺産を市のシンボルにしようと開発を免れた本丸跡などの保存に向け、まずはシンポジウムが開かれる。(2009.6.23毎日jp)

関ヶ原の役の後、徳川譜代の鳥居忠政が飯野平に新たに入部し、それまでの地名を磐城平と改め、城を築城したのが磐城平城の始まりである。忠政の父元忠は家康が竹千代と呼ばれ今川家の人質であった頃から側に付き従っていた側近中の側近である。

続きを読む


吉田松陰と金子重輔 松蔭没後150年を偲び萩市市民団が姉妹都市下田市で植樹 [人物]

安政6年10月27日(1859.11.21)に没した吉田松陰を偲び山口県萩市訪問団が21日、姉妹都市下田市の市代表らと共に同市柿崎の松蔭像に萩市市花ヤブツバキを植樹し、松蔭の遺徳を称え両市の友好関係の発展を祈願した。(2009.6.22静岡新聞)

昭和50年10月28日に山口県萩市と静岡県下田市は姉妹都市の提携を結んだ。その縁となったのが、嘉永7年3月27日(1854.4.24)長州藩の吉田松陰と金子重輔が浦賀沖に停泊していた米国のペリー提督率いる東インド艦隊所属軍艦ポーハタン号に乗り込み密航を企て失敗した歴史によるということだ。

続きを読む


全国藩校サミットin長岡 過去最多全国28藩主子孫、51藩校代表が集結 [topics]

新潟県長岡市長岡市立劇場で20日、全国の藩主の子孫や歴史関係者、市民ら約1600人が参加し「第8回全国藩校サミットin長岡」が開かれた。全国28藩の当主子孫及び、弘前から薩摩まで51藩の藩校代表が集まり藩校教育の理念を今後の人材育成に生かす重要性を話し合った。(2009.6.21新潟日報)

2002年5月に第1回が東京都湯島聖堂で行われた全国藩校サミットは、第2回会津藩日進館(福島県)、第3回多久藩東原庠舎(佐賀県)、第4回高梁藩有終館(岡山県)、第5回高遠藩進徳館(長野県)、第6回庄内藩致道館(山形県)、第7回熊本藩時習館(熊本県)と毎年回を重ねる毎に参加校も増え、規模を拡大してきた。当時は不可能であった各藩独自の教育方法を交流を通じて、今後の人材育成にひろく生かすことを目的に開催されてきたものだ。

続きを読む


岩出山城 政宗公祭りPRに「戦国BASARA」から助っ人 [史跡]

 宮城県大崎市岩出山で今年9月12、13日に行われる「第46回政宗公まつり」のポスターに人気ゲームソフト「戦国BASARA」の伊達政宗と片倉小十郎が描かれる。実行委員会では希望者10名にこのポスターをプレゼントする。(2009.6.20河北新報)

 岩出山城は伊達政宗が天正19年から慶長5年(1591-1601)までの12年間を過ごした居城である。豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとして行われた東北仕置において、政宗は会津領を没収され、黒川城(若松城の前身)から米沢城に移った。しかし、翌年この仕置により領地を失った葛西・大崎氏が起こした反乱葛西大崎一揆の黒幕として、政宗の名が浮上した。疑いを晴らす事は出来たが、その際大崎岩出沢に再減封となってしまった。

 「政宗公まつり」は天下の覇者となる夢を捨てきれない伊達政宗が、若き日々を過ごした岩出山で公の遺徳とその業績を顕彰し、毎年秋に行われている祭りである。岩出山時代の伊達武者を再現した武者行列の出し物が、祭りに華を添えている。

続きを読む


飯田覚兵衛直景 加藤清正を偲ぶイチョウ木の由来碑を子孫が建立 [人物]

 加藤清正の重臣飯田直景(1562-1632)が福岡の屋敷に植えたとされるイチョウの木の由来を記した碑を、子孫の飯田直喜氏が建立した。 (2009.6.18西日本新聞)

 飯田直景、通称覚兵衛は加藤清正とは幼少時よりの竹馬の友であり、森本儀太夫一久、庄林隼人一心と並んで加藤家の三傑と呼ばれた。武勇に優れ、槍を使わせては右に出る者なしといわれたほどであったという。文禄の役の第2次晋州城攻防戦(1593)では後藤又兵衛基次と一番乗りを競ったことでも有名である。

続きを読む


安重根 刑執行直前に書かれた書など30点を韓国に貸し出し [人物]

1909年10月26日中国ハルビン市で伊藤博文を暗殺した朝鮮独立運動家安重根(アン・ジュングン)が旅順刑務所で死刑執行直前に書いたとされる書などを、今年10月から韓国ソウルで行われる「安重根義士義拳100周年記念特別展」に貸し出すと、所蔵している龍谷大学が発表した。(2009.6.16京都新聞)

韓国では安重根は独立の英雄として「義士」の称号を得ているほどだ。裁判時、彼は韓国統監府統監であった伊藤博文に対して15の罪を挙げているが、伊藤自身は日本による韓国併合には消極姿勢を貫いていた。伊藤の政治姿勢に関わらず併合は行われることになったであろうが、伊藤の死により却って早まってしまうという結末となってしまった。

続きを読む


ダビンチの真作か? 「ラロックの聖母」が今夏日本で展示 [topics]

レオナルド・ダ・ヴィンチの真作なのかどうか、現在イタリアで鑑定中の「ラロックの聖母」がこの夏日本で展示されることになった。(2009.6.15Yahooニュース)

1998年フランス南部ラロック村の中古雑貨店で偶然発見された絵画「ラロックの聖母」。その後、多くのダビンチ専門家の見解から「ダビンチの弟子か、あるいはレオナルド派の人物が描いたもの。ダビンチ本人という可能性もある。」という評価へ行き着いた。

そして、次の段階として画の科学的調査がはじまった。ダビンチは画に指や手を使って表現する方法を行ってきたので、現存している作品からダビンチの指紋200点以上がローマ警察に保存されている。「ラロックの聖母」にダビンチの指紋が残っていれば真作に一段と近づくといえる。しかし、残念ながらこの画からは指紋は見つからなかったが、その代わりに手のひらの掌紋が見つかったのである。過去に掌紋の採取がされていなかったために、現在もダビンチ作品から掌紋の採取作業がイタリアで行われている。

続きを読む


ゴッホ 「ドービニーの庭」から消えた黒猫の真実 [topics]

岡山県倉敷市で行われた文化財保存修復学会でひろしま美術館所蔵のゴッホの「ドービニーの庭」を科学的に調査した吉備国際大大学院の下山進教授が「消えた黒猫」についての報告をした。(2009.6.14中国新聞)

 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)が最晩年の1890年に描いた油絵「ドービニーの庭」は最初に描かれた1枚がスイスのバーゼル美術館に所蔵されていて、それを複製したと思われるもう1枚がひろしま美術館に所蔵されている。

この2枚の違いはバーゼル美術館の方に描かれている黒猫がひろしま美術館の画では描かれていないところ、というよりも塗りつぶされたような痕跡があることから、「消えた黒猫」として暗号めいた憶測が飛び交い美術界の謎の一つとされてきた。

続きを読む


長州藩 幕末から維新にかけての文書・画像34600点をHP上でデータベース化 [topics]

山口県は幕末から維新にかけての、書状や写真など計約34600点のデータをホームページ上でデータベース化し公開している。県内10箇所の資料館が所蔵している幕末志士ら長州ゆかりの人物の写真が多数閲覧出来る。(2009.6.13毎日jp)

山口県文化振興課のサイト内にある「幕末維新関係資料等データベース」の閲覧はこちらから。(史料及び画像の使用に関しては各収蔵施設の規定に従うことになりますので、各自での問い合わせをお願いします。)

続きを読む


タグ:長州藩

山本勘助 市河文書を山梨県教育委員会が購入へ [topics]

これまで戦国時代の武将武田信玄に仕えた山本勘助の存在を唯一証明する史料とされた「市河家文書」を山梨県教育委員会が購入すると発表した。(2009.6.12MSNニュース)

市河家文書とは、戦国期は武田氏に仕え、江戸期には上杉家に従った市河氏一族が代々受け継いできた古文書のことだ。しかし、明治になり所有が他家に移ると、文書自体も多くが分散してしまった。最も数多くの文書を保存しているのが本間美術館(山形県酒田市)で、これらは重要文化財に指定されている。

昭和44年北海道釧路市在住の市河氏子孫の方が所有していた武田晴信の書状の中に「山本菅助」なる人物の名前が記されていたことが世に知れ、俄かに山本勘助実在説が浮上したことは以前のblogに書いた通りです。今回山梨県教育委員会が購入することに決めた書状とはこの市河家文書のことであります。

続きを読む


天草四郎は妻帯していた? 尾張徳川家の史料から新発見! [人物]

江戸時代初期に起こった最大の切支丹一揆島原の乱の指導者であった天草四郎に妻がいたことを示す史料が尾張徳川家から見つかった。島原の乱時には16歳くらいであったと思われる四郎のこれまでのイメージを覆す発見なだけに、今後の研究に注目が集まりそうだ。(2009.6.11熊本日日新聞) 

天草四郎、本名を益田四郎時貞は寛永14年10月25日から15年2月28日(1637.12.11-1638.4.12)の島原の乱における幕府の原城攻撃の際、自害したとされている。関ヶ原の役で滅亡した小西行長の家臣の子として生まれ、母の実家のある天草諸島大矢野島(現熊本県上天草市)で生まれたとされるが確たる証拠はない。この小西家の遺臣や切支丹達から擁立された四郎は救世主として様々なイメージが作り出され神格化された存在であったという。このイメージは、原城の一揆勢が皆殺しにされた為に四郎の首実験をした幕府役人も本人を最後まで確定できなかった結果、今日までそのまま持ち続けられているようだ。

続きを読む


彦根藩 150年のわだかまりを払拭すべく吉田松陰の墓参り [史実]

幕末、安政の大獄で吉田松陰をはじめ尊攘派を弾圧した大老井伊掃部頭直弼(1815-60)の国元である滋賀県彦根市の市長が8月下旬に市民と共に山口県萩市を訪問し、松陰の墓参を計画している。(2009.6.10Yahooニュース)

慶応4年(1868)正月3日に戦火が開いた鳥羽・伏見の戦い。兵力では3倍もの優勢を保っていた旧幕府軍であったが、薩長土藩の銃火器の性能と西欧式散開戦術に緒戦の鳥羽街道での戦いから大敗を喫してしまった。

一方、伏見街道方面では会津藩、新選組の本営伏見奉行所向かいの御香宮神社に薩摩藩が入り対陣したが、神社の東側にある龍雲寺高地を彦根藩が守備していたので、これに対してはさほど注意を払っていなかった。実際は態度が鮮明でない彦根藩を薩摩藩は退けてしまい奉行所を見下ろす丘陵に砲兵部隊を引き上げていた。

戦いの口火となったのは鳥羽街道で始まった戦闘の砲声であった。高台から撃ち下ろされる砲弾と神社からの十字砲火に会津藩兵や新選組隊士は混乱状態に陥った。まさか、味方であるはずの彦根藩が寝返るとは夢にも思わなかったのであろう。

続きを読む


密約は存在した 「核持込み」をあらためて元外務官僚が証言 [topics]

1960年の日米安全保障条約改定に際して、米軍の核搭載艦船や航空機が日本国内に立ち寄ることを黙認する「密約」は、外務省の中枢官僚だけが引き継いで管理していたと4人の元次官が証言した。それによると、引継ぎに関しては官僚側だけの判断で橋本龍太郎氏、小渕恵三氏ら一部の首相、外相のみに伝えてきたという。(2009.6.1東京新聞)

1972年に本土復帰を果たした沖縄の返還をめぐり、米国との秘密交渉役を務めた故若泉敬氏の著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文芸春秋社刊 1994)の中ですでに密約が存在したことは明らかにされていた。さらに氏の著書を裏付ける、有事の際に米軍が日本国内に核兵器を持ち込むことを日本側も認めていたとする当時のニクソン大統領とキッシンジャー補佐官とのやりとりを記したメモもアメリカ公文書館ですでに公開されている。

このように証拠がそろっているにもかかわらず、政府は今日まで密約は存在していなかったとする見解に終始している。本当に日本政府は国民に対して嘘をついてきたのだろうか。それとも、密約が存在していること自体を知らなかっただけなのだろうか?

続きを読む