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塚原土佐守高幹 推定地扱いであった卜伝の城を本格調査 [人物]

 戦国時代の剣術家、塚原卜伝(ぼくでん)(1489-1571)が城主を務めた塚原城跡(塚原館跡)について、鹿嶋市教委は10月下旬、初めての本格的な発掘調査に着手する。これまで「推定地」扱いだったが、史実解明の一歩につながる可能性も出てきた。(2009.9.27茨城新聞)

 卜伝塚原新右衛門は常陸国鹿島神宮神官の一族鹿島氏の子として生まれ、後に分家である塚原氏に養子に入った。実父より鹿島古流、養父より天真正伝香取神道流を学んだ。諸説あるが秘伝「一の太刀」を体得し、自ら鹿島新当流を開眼した。

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西郷隆盛 官軍医の日誌より辞世の漢詩が発見される [topics]

 明治10年(1877)西南戦争について新政府軍の軍医が書き残した日記に、西郷隆盛の辞世の漢詩ともみられる七言絶句が記されていたことが、12日までに分かった。調査した鹿児島市の西郷南洲顕彰館は「西郷が心境を述べた詩に間違いない」(高柳毅館長)と太鼓判を押すが、「官軍医の自作ではないか」とみる研究者もおり、真偽をめぐり論議を呼びそうだ。(2009.9.12西日本新聞) 

 『肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公  西郷隆盛』 肥後や豊後への道はすでに窮まった。故山に帰り骨を埋めよう。維新完遂のために覇を唱えたが、今となってはもうむなしい(ここで戦いをやめよう)。我が半生を振り返ってみると、功罪両様の跡が残ってしまった。泉下で一体どんな顔をして、照国(島津斉彬)公にお会いすることだろうか。(西郷南洲顕彰館訳)

 西郷は生前に194の漢詩を残しているが、辞世の詩は確認されていない。

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聚楽第行幸図屏風 上越市個人宅で昨年発見され鑑定の後公開 [topics]

 豊臣秀吉が京都に建てた聚楽第に後陽成天皇が出向く様子を描いた屏風絵「御所参内(ごしょさんだい)・聚楽第行幸図屏風(じゅらくていぎょうこうずびょうぶ)」が上越市の個人宅で発見され、寄託を受けた上越市立総合博物館が11日、報道機関に公開した。(2009.9.12新潟日報)

 聚楽第は秀吉が天正15年(1587)に京の都に完成させた城である。大阪城からここに移り、政務を執ったとされている。しかし、関白職を譲った甥の豊臣秀次の居城となった後の文禄4年(1595)に秀次を高野山に追放し切腹を命じ、聚楽第を跡形も無く破壊してしまった。城内の建物のうち現在も国宝に指定されている西本願寺の飛雲閣や大徳寺の唐門は聚楽第からの移築であると伝えられている。

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タグ:聚楽第

操坦晋 流罪中の西郷吉之助が書の手習いとし学んだと郷土史家が考察 [人物]

 「敬天愛人」の遺訓で知られる西郷隆盛(1827-77)の書の師匠は、西郷が幕末の1年半、島流しされた鹿児島県沖永良部島の薩摩藩島役人坦晋(たんしん)(1800-61)だったと郷土史家の先田光演氏が現存する日記などから解読し明らかにした。(2009.9.11西日本新聞)

 慶長14年(1609)に琉球王国を征服した薩摩は王国の形態をそのまま維持させ存続させた。このため、沖縄本島のすぐ北に位置する沖永良部島も薩摩の直轄地となり、最果ての流刑地という扱いではあったが、藩の支配が強い奄美大島と徳之島に比べ琉球文化圏を維持することも可能となったのである。

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週刊マンガ日本史創刊 最新の学説と人気作家による全50冊 [topics]

 朝日新聞出版より10月6日に人気漫画家が歴史上の偉人を描く『週刊マンガ日本史』(全50冊)を創刊する。藤原カムイ氏の『卑弥呼』を皮切りに、山田貴敏氏の『織田信長』、安彦良和氏の『勝海舟』など偉人達の生き様を毎号オールカラーで描いていく。(2009.9.7ORICON STYLE)

 全50号を総監修するのは日本テレビ系列で放映中の「世界一受けたい授業!!」に出演する歴史研究家の河合敦氏が担当し、最新の学説を作品の中に取り入れてゆくということだ。

 『週刊マンガ日本史』のティザーサイトはこちら

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最古級の剣道具を発見 幕末の風雲急に庶民も自衛を意識 [topics]

 滋賀県大津市の旧家でこのほど、江戸後期の竹製による剣道具一式が見つかった。資料や形状から天保年間(1830-43)の製造とみられ、研究者によると現存では最古級という。(2009.9.3京都新聞)

 発見された剣道具一式は現在のものとは形状が違い、道具が本格的に用いられ完成した形となる明治時代への進化する発展途上のものであるようだ。

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仙台東照宮 [史跡]

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 前回に引き続いて仙台での歴史散策です。旧仙台城から部材を移築した宮城県知事公館正門から東へ、市内中心部を抜けて国道45線を松島塩釜方面に向かいます。新幹線の高架下を抜ける手前の信号を左に折れると、そこから今回の目的地である仙台東照宮へ真直ぐつづく宮町通りに入れます。仙台東照宮もblogのサイドバーで紹介したことがありました。私は以前この界隈に住んでいたので地理についても詳しいのです。

 仙台東照宮は伊達藩二代藩主忠宗公が承応3年(1654)に完成させ、領内では塩竃神社に次ぐ待遇を与えられていた。この地には元々は天神社という社がありましたが、東照宮造営のために榴ヶ岡(現宮城野区榴ヶ岡公園のすぐそば)へ移転しています。実はここは東照大権現こと徳川家康とはゆかりのある地で、天正19年(1591)に豊臣秀吉の会津仕置において領地を失った豪族達による反乱、葛西大崎一揆平定の視察を終えた家康が一揆の黒幕と目された伊達政宗と一緒に宿陣した場所なのです。秀吉の天下統一が成った直後だっただけに、二人がどんな会話をしたのか興味を引くところです。

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