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真柄十郎左衛門直隆 剛勇無双の戦国武者真柄直隆の甲冑を再現 [人物]

 戦国時代、力士並みの巨体で長さ3メートルの太刀を振り回したとされる福井県越前市味真野地区の武将で朝倉氏家臣、真柄十郎左衛門の甲冑(かっちゅう)の再現に、地元グループが取り組んでいる。装着すれば、足元から兜(かぶと)の先まで含めて2メートル30センチという超特大サイズ。グループが既に作り上げた大太刀や巨大な下駄(げた)と合わせて、6月末ごろには披露する予定で、“伝説の豪傑”が現代によみがえる。(2011.02.24福井新聞)

 江戸時代の儒学者山鹿素行が著した「武家事紀」に、徳川家家臣向坂六郎五郎吉政の戦功についての記述がある。そこには、元亀元年(1570)の姉川合戦において、吉政が越前国人衆真柄十郎左衛門直隆を討取った時の様子が以下のように書かれている。

 十郎左衛門は五尺三寸の大太刀を振り回し、六郎五郎の親族六郎左衛門式部(吉政の子?)と槍を交えた。式部が兜の吹返しを砕かれ槍を落としたので、弟の五郎二郎が入替わり渡り合った。そこに、六郎五郎吉政が郎党の山田宗六と助太刀に入った。十郎左衛門は五郎二郎と山田宗六を切伏せたが、その隙に吉政の十文字槍で討たれ首を取られてしまった。吉政は最初に槍をつけた式部に首を取るよう云ったが、辞退したので吉政が十郎左衛門直隆の首を取ったという。

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ハーマン号事件 戊辰戦争の最中遭難した熊本藩兵乗船のアメリカ気船を引揚げる計画を発表 [史実]

 明治維新直後、旧幕府軍と戦うため官軍がチャーターし、東京・高輪沖を出航後、房総沖で沈没した黒船の発掘調査が来年六月、日本水中考古学調査会と米テキサス農工大によって行われる。蒸気機関や兵器、軍用金などが引き揚げられれば、当時の日米交流などを物語る貴重な歴史的資料となるものと期待される。(2011.02.07東京新聞)

 奥羽越列藩同盟を離脱した津軽藩が、榎本武揚率いる旧幕府軍と戦闘を開始したのは明治元年十月二十二日(1868.12.05)夜、峠下村(現北海道亀田郡七飯町)である。箱館府、松前、備後福山、越前大野の藩兵と合わせた1450程の兵力であったが、夜間であった事と実戦を重ねてきた旧幕軍に対し、抵抗虚しく退却を余儀なくされた。結局、津軽藩兵は同月二十四日、五稜郭防衛を断念した清水谷公考府知事と共に青森へ脱出している。

 津軽藩藩主津軽承昭公は、実兄である熊本藩藩主細川韶邦公に援軍を要請。これに応えるかたちで、江戸藩邸にあった番頭・寺尾九郎左衛門を筆頭に熊本藩兵一大隊350人が、横浜で借り受けた米蒸気外輪船ハーマン号に乗込み高輪を出航したのは、明治二年一月二日であった。

 翌日未明、房総半島上総夷隅郡川津村(現千葉県勝浦市)沖合いにて、ハーマン号は暴風により座礁、大破。この事故により、熊本藩士205名、アメリカ人乗組員22名が犠牲となってしまった。

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伊達綱村 仙台藩四代藩主以降の墓所 大年寺跡地を市が取得 [史跡]

 仙台市は、伊達家の霊廟(れいびょう)として栄えた旧大年寺(太白区)の敷地の一部を取得することを決めた。周辺の公園と一体的に整備し、自然豊かな憩いの場を提供する。市は「青葉区の仙台城跡や瑞鳳殿に次ぐ伊達家ゆかりの人気スポットとしてPRしていきたい」と話している。(2011.02.08河北新報)

 仙台藩第四代藩主綱村公の治世は、産業開発、文化奨励という面から見れば藩の黄金時代を築いたといえる。その中でも、黄檗(おうばく)禅宗に帰依した公が元禄十年(1697年)茂ヶ崎城跡(現仙台市太白区茂ヶ崎)に開基した両足山大年寺の七堂伽藍は、京都山城の本山萬福寺を擬し、壮麗を極めたという。また、その地は以降の歴代藩主廟所にもなった。

 藩祖政宗公から三代綱宗公までは、瑞鳳殿に代表される青葉山経ヶ峰に死後霊廟が建立されたが、綱村公の遺訓先規に従い毎世廟を建てなば後世子孫何を以て保たん、我死せば墓石を建て、瓦葺の屋根を覆うまでにすべしに従い、以降の藩主に御霊屋は建てられなかった。大年寺は、明治の廃仏毀釈にともない伊達家が仏式から神式になったため、その庇護を失い荒廃した。現在の寺は昭和になり再興されたものである。

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