So-net無料ブログ作成

楢崎頼三 白虎隊士飯沼貞吉を養育した長州藩士に新証言 [topics]

 幕末の戊辰戦争で自決した会津藩の白虎隊で唯一生き残った飯沼貞吉(さだきち)の孫にあたる一元(かずもと)さん(68)=東京都=が18日、貞吉を養育したとされる長州藩士の子孫松葉玲子さん(76)=同=と京都市内で初対面した。敵同士の許されざる支援にあたるためか史料がないというが、対面で松葉さんが「祖母から話を聞いた」と証言し、一元さんは「養育を裏付ける一級の証拠」と感無量の様子だった。(2011.9.18京都新聞)

 長州藩士楢崎頼三は、戊辰戦争において東山道先鋒軍中隊長として各地を転戦した。会津戦争の若松城陥落後には、奥州諸藩の捕虜460余名を東京へ護送する役目も担っている。

 頼三の給領地、長州小杉(現山口県美弥市)では、地元に古くから言伝えられる以下のような逸話が残されている。明治元年12月雪の降る寒い日、頼三は小杉に帰郷した。この時、乗馬する馬の轡を取る十五、六の少年を連れていた。少年は会津出身で、自分が書生として面倒をみるつもりだと、出迎えた者達に話したとされる。更に頼三は、少年のことを「サダさあ(さん)」と呼んでいたという。

続きを読む


女たちの伊達騒動 [史跡]

 仙台駅西口五橋1丁目交差点からJR高架下を抜け、仙塩地区産業道路に繋がる新寺通りと交差する宮沢根白石線の界隈、いわゆる新寺小路は藩政時代から寺社が多く集まる場所です。藩祖政宗公が慶長六年(1601)に仙台城下町割りに際し、東の守り(鬼門)としてこの地区に幾つかの寺院を配置し、更に寛永十四年(1637)に始まった第1次城下拡張によって、当時寺町であった寺小路から一部の寺院が移されて来ました。以降、二つの寺町は元寺小路、新寺小路と呼ばれるようになったわけです。(1)

 JR仙石線で一つ目の榴ヶ岡駅を降りると、中心街の喧騒さが信じられない静かな佇まいを見せてくれます。交通の利便性もあり、気軽に行き来が出来る新寺小路を、伊達騒動関連の史跡を中心に歴史散策してみました。

 駅から仙台サンプラザの前を南へ歩くと政岡墓所があります。この墓所には政岡のモデルとされる仙台藩三代藩主伊達綱宗公の正室三沢初子、二代藩主忠宗公正室振姫、四代藩主綱村公正室仙姫の三人の墓があります。 (2)

P8220038.JPG

 政岡というのは、歌舞伎「伽羅先代萩」に登場する亀千代丸の乳母のことです。伊達騒動の名が世間に広く知れ渡ったのは、この芝居と小説、大河ドラマ「樅ノ木は残った」というフィクションであったことは云うまでもありません。詳しいことは後日機会があれば書くつもりですが、政岡は近年の研究では三沢初子がモデルではなく、あくまで創作された人物であったろうとされています。にもかかわらず、現在も歴とした仙台藩藩主正室の墓所をフィクションのキャラクターの名前で案内しているところが、この史跡の面白いところだと思います。(3)

 墓所の向かいには案内所があり、ここで墓を管理している孝勝寺住持から説明を聞くことも出来るそうなのです。今回もそうでしたが、私が訪ねる時は休日に当たっていてこの件に関して質問できずにいます。ですが、一般に浸透している政岡の墓とすることで、この墓所を案内しやすかったであろうことは容易に想像できます。なお、普段は扉が閉まっているので見学出来ませんが、隣接する公園から中の様子を見ることは可能です。

 政岡墓所を後にし西へ歩きますと、上記した宮沢根白石線の大通りがあり、この向い側にある日蓮宗東北本山孝勝寺へと向います。孝勝寺の名は振姫の法号「孝勝院殿秀岸日訊大姉」からきているとおり、藩主正室の帰依により、当時大いに 隆盛を誇ったようです。仙台城城下絵図などを見ますと、現在よりも遥かに広大な寺域を有していたことが判ります。政岡墓所もそうですが、現在の仙台サンプラザまでも含める広さだったのです。

 この孝勝寺には、綱村公が生母三沢初子の死後、元禄八年(1695)に建立した釈迦堂が現存しています。元はこの場所ではなく宮城野の榴ヶ岡に建立されたのですが、昭和四十八年に宮城県図書館の建設に伴い移設されたものであります。綱村公が母の護持仏であった釈迦像を安置し、その功徳を領民にも及ぼそうとしたのがそもそもの経緯でありましたが、その隣接地には多くの枝垂桜を植え、芝居の興行を許可し、領民憩いの場としても提供したのです。これが現在の榴ヶ岡公園発祥の地となったわけです。

P8220045.JPG

 孝勝寺の釈迦堂の前には亀千代丸を抱く三沢初子の像があります。私は政岡のモデルが三沢初子ではないと書きましたが、この像を見ていると、政岡が実子千松を犠牲にしてまで、忠義と情愛で亀千代丸を守った場面と重なるものを感じます。生涯に渡り生母の愛を深く受け止めた綱村公は、初子の弟信濃宗直を一門に列し、竹に雀の伊達家家紋の使用を許し、これに報いています。(4)

(1)仙台藩の当時、元寺小路は現在の勾当台公園から広瀬通を経て鉄砲町に至る城下随一の幹線道路でした。定禅寺通や光禅寺通、花京院など、今使われている地名は当時同名の寺院がこの界隈にあったことに由来しています。

(2)忠宗公が三沢初子を綱宗公の側室とすることを、叔母であり振姫の老女紀伊に相談したところ、初子が名家の出身(父三沢権佐清長は美濃大垣城城主氏家志摩守広定の養子となり、関ヶ原の役後、流浪した)を理由に、正室としてならば婚姻を謹んでお受けすると答えた。忠宗公はこれを承知し、明暦元年(1655)正月、二人を結婚させた。しかし、公は幕府へは正規の結婚としては届けなかった。これは、将来の仙台伊達藩主正室としては初子の素性がふさわしくなかった事と、綱宗公が当時まだ未成年であったことが理由だとされている。だが、綱宗公は正室を娶ることなく、隠居してしまったので、初子は事実上の正室と認識されている。

(3)東京都目黒区正覚寺にも三沢初子の墓があります。この境内に、政岡を演じた尾上梅朝をモデルにした三沢初子の銅像があります。少々ややこしい感じもしますが、やはり政岡と三沢初子は、切っても切れない縁のようです。

(4)以前にも書きましたが、孝勝寺の山門は仙台城より拝領されたという言い伝えがあります。実に見事な山門で一見の価値はあります。なお、この寺域には参拝以外の出入りを禁ずる案内が出ています。写真撮影など、見学を希望する際は一言声を掛けてからが望ましいと思います。

続きを読む