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宇和島さんさ 仙台藩への意地と伊達侍の心意気から生まれた民謡を後世に [史実]

 宇和島市の伝統芸能「宇和島さんさ踊り」を後世につなごうと、継承者育成講座が19日、同市住吉町1丁目の市総合福祉センターで始まった。宇和島さんさ普及会の宮川和扇会長(82)が、公募市民25人に礼法や足さばき、手の使い方などを丁寧に伝授した。 (2011.10.20愛媛新聞

 宇和島藩初代藩主伊達秀宗公は仙台藩祖政宗公と側室の間に生まれた長男であったが、時の天下人豊臣秀吉の猶子として幼少を過ごしたこともあり、徳川政権時に伊予宇和島十万石を仙台伊達家の支藩ではなく、国持大名として起こすこととなった。しかし、仙台藩ではことあるごとく、宇和島藩を見下す扱いをしていたようで揉め事が絶えなかったという。

 第五代藩主伊達村候(むらとき)公は、享保の大飢饉(1732年)の際に藩政改革を実行し、領民を救済した藩中興の祖とされている人物である。ところが、その治世の寛延二年(1749年)、仙台藩とのトラブルはついに表面化し、幕府が調停に乗り出すことになってしまった。

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新選組平同士 松本喜次郎 「誠」の旗の下に集いし男達の誇りを胸に、死へ赴いた隊士に捧ぐ [人物]

 郡山市の大日本武徳会新誠舘の塾生5人は11日、同市湖南町の正福寺で新撰組隊士松本喜次郎慰霊・居合抜刀道奉納演舞を行い、松本喜次郎の遺徳をしのんだ。(2011.10.14福島民友)

 和泉国岸和田藩で弘化三年(1846年)生まれの松本喜次郎が新選組に入隊したのは、文久三年八月十八日の政変前後であったと云われる。元治元年(1864年)の行軍録には井上源三郎の三番隊に属したことが記され、同年の池田屋騒動に際しては、出動隊士として褒賞金十五両を賜ったことも記録に残っている。

 鳥羽伏見の戦いを経た慶応四年(1868年)、甲州勝沼の戦いの後永倉新八らと共に近藤勇と袂を分かち、新選組とは別に戊辰戦争に参じた。しかし、同年八月十七日会津戦争による戦傷がもとで、猪苗代湖南三代の正福寺(現福島県郡山市湖南町三代)にて死亡し、同寺に葬られた。墓石には「喜見道清居士/新選組士松本喜次郎二十三歳/慶応四戊辰年八月十七日没」と刻まれている。

 松本の死に関して不可解なことは、大抵の歴史家達が新選組に復隊していたとする点である。確かに、戊辰の役を生き抜いた隊士達が後世に残した記録の中で松本は、「会津三代ニ而戦死」(中島登覚書)、「会津ニテ死ス」(横倉甚五郎新選組隊士名簿)、慶応三年から島田魁が作成した名簿録の中では蝦夷へ渡航せず戦死と、いずれも新選組隊士としての戦死扱いとなっていることからも明らかである。だが、戦傷を負ったとされる慶応四年閏四月からの白河口の戦いにおいて、山口ニ郎が率いた新選組の会津藩に提出された編成表の中に松本の名前は見当たらない。

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