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田原坂 日本内戦史上最大の激戦地で想いを馳せる [古戦場]

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田原坂ノ北タルヤ。外昴ク内低ク、恰モ凹字形ヲ成シ、坂勢峻急、加ウルニ一陟一降ノ曲折ヲ以テシ、茂樹灌木之ヲ蔽ヒ鬱蒼トシテ昼暗ク、洵ニ天険ト為ス」 参謀本部編纂『征西戦記稿』より

 明治十年(1877年)ニ月ニ十五日から高瀬(現熊本県玉名市高瀬)において、薩摩軍と征伐軍が菊池川を挟んで三度の激戦を繰り広げた。西南戦争中、両軍主力が積極果敢に攻勢に出た最初で最後の野戦、いわゆる高瀬会戦である。数に劣る薩軍であったが、それを上まわる士気で一進一退の攻防を演じたものの、幾つかの不幸な出来事により撤退を余儀なくされた。(1)

 高瀬での戦闘後、征伐軍は兵力を集中させるために数日を使った。その間、薩軍にも北は味取山から田原、吉次を越え有明海に至る強力な南北の防衛線を構築する時間を与えてしまっている。征伐軍主力は当時大砲を移動出来る唯一の田原坂を進み、支隊は吉次峠を、三月四日より本格的な攻撃を開始した。この方面での戦闘は薩軍が防御線を解く四月十五日まで、両軍合わせて4000名以上の死傷者を出してしまい、中でもわずか80m高低の丘陵地田原坂は日本戦史史上最大の激戦地となってしまった。

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茅野和助常成 もと咲く野辺に枯れる覚悟をこめた自筆の遺書が発見される   [topics]

 忠臣蔵で知られる赤穂浪士四十七士の1人で岡山県津山市出身の茅野和助(1667~1703)が、討ち入り直前に書いた自筆の遺書とみられる手紙が、津山市内で見つかった。(2011.12.12YomiuriOnline)

 茅野常成は寛文七年(1667年)の生まれ、美作国津山藩森家に仕えていたが、同家が跡目相続を巡る問題で改易となったため、隣国の赤穂浅野家に再仕官した。禄高は五両三人扶持、役柄は横目付であった。しかし、仕官してわずか4年で、浅野家に降りかかった凶事により、再び浪人の身となる。赤穂藩では新参であったが、和助常成は最初から義盟に参加している。

 元禄十五年(1703年)十ニ月十四日の吉良邸討入りに際しては、大石主税の裏門組に属し、屋外で千馬三郎兵衛、間新六らと共に弓で応戦している。

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