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元治元年の長州征討 西郷吉之助の献策は現代に通じる指針と成りえるか [史実]

  アルジェリアでのイスラム武装勢力による人質事件の契機となった隣国マリへのフランス軍による武力介入を巡り、欧米の誤算が引き金となったとの見方が出始めている。マリでのイスラム武装勢力の実力を見誤り、急激な直接介入を行わざるを得なかった欧州の誤算や、米軍がマリ政府軍を訓練したが、一部が反乱に寝返った誤算が指摘されている。(2013.1.19 毎日jp)

 元治元年七月の禁門の変により、朝敵となった長州藩に対して、将軍徳川家茂は征討令を発した。総督に前尾張藩主徳川慶勝、副総督に越前藩主松平春嶽、そして、薩摩藩士西郷吉之助に参謀を命じ、諸藩から15万の兵を召集させた。

 同月、下関の沿岸砲台を壊滅させた四ヶ国連合艦隊が大阪湾に近づく気配を見せたため、西郷はこの問題を一刻も早く解決すべく必要に迫られた。征長総督の任命に幕府が手間取る間、西郷は以前から長州に放ってあった密偵の報告により、禁門の変後に長州藩の保守派が勢いを盛り返したことと、支藩である清末、徳山、岩国の三藩が抗戦的な本藩に批判を強めていたことを探知し、「長人をして長人を処置させる」を上策とし、これを献言した。

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郡上藩凌霜隊 日和見主義の国許から見捨てられた会津戦争もう一つの悲劇 [史実]

 「創業は江戸時代。約130年の歴史があるそうです。宿の前が会津に向かう街道なので宿の名にしたそうです。また、幕末には戊辰戦争で旧幕府軍として戦った美濃・郡上藩の凌霜(りょうそう)隊が塩原に駐留した際に、脇本陣になったといいます」  (2012.12.23 MSNニュース)

 美濃群上藩江戸家老朝比奈藤兵衛は慶応四年(1868年)四月十日、嫡男茂吉を隊長とする47名で凌霜隊を結成し、旧幕府軍を援護する目的で会津に向かわせた。(1)

 美濃群上青山家は家康公以来の譜代の臣であったが、去る二月十一日、国元にいた当主幸宜公は時勢に逆らうことが出来ず、新政府への恭順を表明。一方、江戸藩邸では朝比奈家老をはじめとする強固な佐幕派が主流を占めており、薩長政権を容認しない徳川家家臣の大量脱走に凌霜隊を同行させる要因となった。また、彼らは青山家への責任を回避するため、脱藩身分での出陣であった。

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