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黒田清隆 西南戦争衝背軍11日間滞陣の真相を検証 [史実]

 甲佐町生涯学習センターで4日、「西南戦争 甲佐・堅志田の戦い資料展」が始まった。甲佐の歴史を語る会が、佐土原歴史史料館(宮崎市)の協力を得て企画。28日まで。(2013.2.5 くまにちコム)

 明治十年三月十九日、西南戦争最大の激戦田原坂の攻防はクライマックスを迎えようとしていた。同日未明、熊本城南約40kmの須口の浜に黒木為楨中佐の二個大隊と警視隊五百人が、海軍艦船鳳翔の援護の下、上陸に成功した。

 開戦早々、薩摩出身の高島鞆之助大佐は鹿児島県士族の弱点を「進むを知って退くを知らず。勇猛果敢だが、臨機応変に欠ける」とし、よって八代(現熊本県八代市)辺りを占領し熊本と鹿児島を遮断すべし、と意見具申していた。当初、山県有朋参軍はこれを採り上げることをしなかったが、同月十四日政府は黒田清隆中将を征討参軍に衝背軍を編成した。高島大佐は別働第ニ旅団の司令長官、山田顕義少将に第三旅団、大警視川路利良少将が第四旅団(警視隊)をそれぞれ率いた。

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松浦武四郎 今日最も注目されるべき偉人の企画展が開催 [人物]

  北海道の名付け親として有名な松阪出身の探検家・松浦武四郎(一八一八―八八年)は激動の幕末に志士としても活躍した―。松阪市小野江町の松浦武四郎記念館は「武四郎と幕末の志士たち」展を開き、意外と知られていない武四郎の素顔を紹介している。三月二十日まで。(2013.1.24 伊勢新聞)

  松浦武四郎は文政元年(1818年)、伊勢国須川村(現三重県松阪市小野江町)の生まれ。先祖は多気城主北畠氏の家臣から土着した郷士であったという。林子平に傾倒し、幼少時より国防という意識に芽生えていた。17歳で故郷を飛び出し、10年間一度も帰郷することなく蝦夷を除く全国各地、及び名立たる山々を踏破した。26歳の時、長崎の名主津川蝶園文作から北方探査の重要性を説かれ、これを人生の目標に定め、蝦夷渡航を嘱望するようになった。

 武四郎の生涯において、六度にわたる蝦夷探査とそれにより完成した精密な地図、及び数多くの著書を遺したことは最も光が当てられるものであろう。著書の中で、当時差別され略取され放題であったアイヌ民族の実情を厳しく告発し、待遇改善に努めた。蝦夷図に関しては、寛政十二年伊能忠敬による実地踏査を引き継いだ間宮林蔵が完成させていたが、武四郎はこれに山脈、河川の源流、道路、村落などを片仮名で詳細に記し、着色して完璧なものに仕上げている。

 蝦夷がロシアの脅威に晒されていた幕末、彼の名声は現代とは比較にならない程、天下に広く知れ渡っていた。幕末初期の志士達は、欧米列強の侵略という憂国の想いが何よりもその行動規範であったため、武四郎が全国の志士達から一目置かれていたのはいうまでもない。(1)

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