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矢頭右衛門七教兼 困窮に耐え亡父の胴鎧で本懐を遂げた美貌の義士 [人物]

 赤穂四十七士の中で、大石主税に次ぐ若さの十七歳で討入りを果たした矢頭右衛門七をテーマにした企画展が、12月に群馬県前橋市で開かれる。当地である前橋松平藩で右衛門七の実母は身を寄せ没し、市内の大連寺には墓も残っている縁から地元の史家たちが企画したという。

 元禄十四年(1701年)三月、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が刃傷を起した際、右衛門七教兼はまだ部屋住の無禄であった。父長助教照は中小姓・勘定方で大石内蔵助を補佐し、赤穂城開城後の残務整理に当り、藩財源であった塩田浜方の処理も行っている。(1)

 長助は過労からか病に倒れ、翌年一月の山科会議には右衛門七を代理で出席させた。義挙への参加という願いも虚しく、同年八月に大阪で病没。すでに自らの死を悟っていたため、自分の代わりに息子に討入参加を託し、母るいもそれを強く勧めたようだ。内蔵助は当初、右衛門七の若さと残される母と妹たちを気遣い加盟を許さなかったが、不変の決意をくみ同士に加えた。

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龍馬の志を継ぐ 北海道へ渡った坂本家に伝わる直筆の手紙が公開 [人物]

 幕末の志士坂本龍馬直筆の手紙が北海道浦臼町郷土史料館で公開される。手紙は明治に北海道へ移住した子孫から親しくしていた人物へ伝えられ、今年3月に浦臼町に寄贈されたものである。なお劣化を防ぐため、真筆の公開は今回のみの予定。公開は7月31日まで。

 龍馬直筆の手紙は安政五年(1858年)に郷里の姉乙女に宛てたものだとされている。されていると推定するのは、これには宛名が記されてないからだ。半紙の表だけでは足りずに裏面まで使い書かれてる文章は、書式張っておらず書出しから土佐弁ではじまり、実にリラックスした調子で明らかに心を許せる人へ書かれた内容となっている。龍馬が残した手紙で、こんな調子で書かれてるものは乙女に書かれたもの以外には見当たらない。

 「先便差出し申候しよふ婦は皆々あり付申候よし」と、先の便で送った花菖蒲がみんな根付いたそうですねと書いています。これは、現在でも多くの人が訪れる東京都葛飾区堀切の菖蒲を土佐に送ったところ、全て根付いたと聞いたことへの返事のようです。この手紙が書かれた前年に歌川広重の名所江戸百景「堀切の花菖蒲」が制作されているので、江戸市民の間でも有名な観光名所であったことがうかがえます。好奇心旺盛な龍馬も早々に堀切へ足を延ばしたのではないでしょうか。(1)

 記事にあるよう、今年3月に手紙を所有していた方が浦臼町に寄贈されたということですが、土佐高知に出された手紙が北海道で保管されていたのは、龍馬の血縁者たち、すなわちその後の坂本家と深く関わりがあるのはいうまでもありません。

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階段の聖母子 若き日のミケランジェロ作浮き彫り彫刻が日本初公開される [topics]

 6月28日から福井県県立美術館にて、県内初となるルネッサンス期の芸術家ミケランジェロの作品展が開催される。中でも、15歳の頃に制作されたという『階段の聖母』は本国初公開となる。

 ミケランジェロが同性愛者であっただろうとする説は広く浸透している。史実としては一切証明されてはいないが、研究者の中にはそれがミケランジェロが幼少時に里子に出され、母親と死別したことに起因していると説いている。生後まもなく、フィレンツェ北東部の小さな集落セッティニアーノの石切職人の妻に預けられ、6歳の時に闘病中だった実母を失っているのだ。

 彼は生涯を通してこの死んだ母親についてほとんど口を閉ざしていた。更に、手紙や創作詩にも何も書いていないだけでなく、実家の経歴や記録さえも一切不明だという。その一方で、同時代のヴァザーリには『(石切職人の妻である)乳母の乳から彫刻を彫るのみや鉄槌まで飲み込んだ』、と話している。記録も記憶もないから実母に関しては何も話すことが出来なかったのか。それに対して、自分を芸術志向の人間に変えてしまうほど影響力があったとも考えている乳母のぬくもり。それは実の母でなかったかもしれないが、彼にとって子への愛というものを実感することが出来たのであろう。

 言葉に出来ない幼少時の大いなる悲しみを、初公開となる『階段の聖母子』から感じられるだろうか。

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