So-net無料ブログ作成

長州藩振武隊 切り捨てられた志、維新功労者たちの末路 [史実]

  戊辰戦争において、長州藩の主力であった諸隊の一つ振武隊の隊士藤山佐熊を隊中様として供養し続ける山口市平川地区で、地元奉賛会により供養祭が執り行われた。

  文久三年五月、長州藩は攘夷の先駈けとして、馬関、赤間関沿岸砲台から関門海峡を航行する外国籍船舶に対して砲門を開いた。だが、翌月の米仏軍艦による反撃に前田、壇ノ浦砲台は壊滅を喫し、陸戦隊により沿岸を占拠されてしまった。藩主毛利敬親公は剃髪し隠棲していた高杉晋作を呼び戻し、下関防衛の任を与えた。晋作は「臣に一策あり」と、藩正規軍とは異なる寡兵を持って虚を衝き、寄道を持って勝を制する、いわゆる奇兵隊の創設を提唱した。

 周知のように奇兵隊が日本史上真に新しき軍隊であったのは、志があれば身分を問わずに入隊を認めた点にある。新式銃を主力兵器とし、簡素化した装備と合理的な西洋式戦術により奇兵隊は藩の主力部隊に成りえただけでなく、戊辰戦争の中核をなす存在へと駆け上がってゆく。

 一方、民衆のナショナリズムをエネルギーに強大な力を得た長州藩では、奇兵隊同様の部隊が続々と誕生した。現在確認されているだけでも、その数は官民合わせて400を超えるという。これらの部隊は総じて「諸隊」と呼ばれるようになる。(1)

続きを読む