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五代友厚 連続テレビ小説は朝の大河ドラマ、ヒロインの精神的支柱に脚光 [人物]

 現在放送中のNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公白岡あさは、明治の女性実業家広岡浅子をモデルに、その生涯をドラマ化したものだ。浅子の嫁ぎ先加島屋が大阪であったことから、当時大阪経済の中心人物であった薩摩出身の五代友厚との関係も描かれる予定だという。そのため、番組開始前の8月には、二人の功績を展示紹介する企画展がすでにスタートしている。(1)

 慶応元年(1865年)に薩摩藩が国法を無視して英国へ送り出した若き留学生たち、いわゆる薩摩スチューデントの引率役であり外交使節であったのが五代才助、後の友厚である。五代は使節として、欧州各国の視察と最新鋭の銃器と弾薬、紡績機械の購入、更に貿易商社の調印などに関わった。

 維新後、大名貸による藩の負債がほぼ消滅し大打撃を受けた大阪を復興するため、大阪商法会議所(後の大阪商工会議所)を設立。その初代会長に着任し、以後の生涯を大阪の発展のために尽くした。

 五代が現在も大阪経済界から尊敬されるのは、その貢献が決して私欲のためではなかったからだ。彼の死後、整理された書簡のほとんどが借金の申し出と返済不能に対する弁明書であった。自らの財閥をつくることもしなかった五代に残されていたものは負債だけであった。

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川村吾蔵とマッカーサー元帥胸像 [人物]

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 70年前の八月の太陽を今日と同じように受けていた東京日比谷第一生命ビル。周辺一帯が空襲の被害を免れ、往時の俤を残すその建築様式は、平成における再開発の際にも、外壁だけは保存され外見は当時のままを私たちに今も伝えている。

 少々意味合いは異なるが、全国各地に遺る戦争遺跡の保存が強く叫ばれるようになったのも、悲劇を再び繰り返さぬよう後世に歴史を伝える手段を一つでも多く残すためだ。

 昭和20年9月15日、GHQがこのビルの6階社長室を接収してから27年9月27日に返還するまでの6年10ヶ月、連合国軍最高司令官ダグラス・F・マッカーサーが執務を取り続けた一室だけは、改装された第一生命ビルの中で唯一当時のまま保存されている歴史的文化財である。

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安井道頓市右衛門 道頓堀開削400年を記念しイベントを開催 [人物]

 大阪ミナミの道頓堀開削400年を記念し、8月1日、道頓堀川の戎橋から太左衛門橋でイベントが開かれる。この催しは「水都大阪2015」のオープニングとして、川に浮かぶ船上を舞台に様々なパフォーマンスが披露される予定だ。

 慶長二十年(1615年)、大阪夏の陣の論功行賞により、家康の孫松平下総守忠明が摂津大阪の領主となり、戦災で荒れ果てた街の復興を担うこととなった。忠明公は半ばで中断していた東横堀川と木津川を結ぶ堀の工事を再開させ、これを完成させた。公は、当初南堀川と呼ばれていた名称を、工事を着手した安井市右衛門の号を取って道頓掘と改めさせた。

 市右衛門道頓は大阪の陣に豊臣方として敵対していた人物ではあったが、戦災直後の徳川への民心を安定させるために、敢えてこの名を使用したようだ。

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渡辺長男と明治天皇御乗馬像 [人物]

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 東京都多摩市都立桜ヶ丘公園。初夏の陽光と新緑の木陰が作り出す明暗の林道を歩いてゆくと、そこには日本の古き良き時代を想起させる歴史的建造物、旧多摩聖蹟記念館がひっそりと佇んでいる。

 明治十四年(1881年)二月十九日、宇津貫、御殿峠(現八王子市)で狩猟を行った明治天皇は、翌日東京へ帰還する予定であったのを、急遽連光寺村への行幸をお決めになった。二十日午前に到着され、昼食後、向ノ岡から榎田山、山ノ越、天井返にかけて兎猟を行い、この日6羽を収穫された。同年六月、連光寺に再び行幸された天皇は、一ノ宮から大丸山(現稲城市)にかけて鮎漁を天覧、多くの見物客であふれかえったという。

 翌年、現在の多摩市東部から稲城市、川崎市麻生区の一部は「御遊猟場」に指定され、大正六年の廃止まで「連光寺村御猟場」として成立し、天皇は数度の行幸を行っている。

 明治天皇と幕末維新の志士たちを顕彰していた元宮内大臣田中光顕は、昭和二年、連光寺村周辺の聖蹟の保存もかねて、多摩聖蹟記念館を建設、昭和五年(1930年)11月に開館した。この記念館の目玉ともいえるのが、当時、彫刻界の重鎮であった渡辺長男が原型制作をした「明治天皇御乗馬像」である。(1)

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寿福院 加賀百万石の母芳春院との生涯で只一度の対立 [人物]

 「寛永の三筆」と称された芸術家・本阿弥光悦が、前田利家の側室で、三代前田利常の生母である寿福院に送った直筆の書状が発見された。

 寿福院は、「加賀藩資料(系譜)」に「側室。千世、また於千代保・東丸殿。元亀元年(1570年)生る」とあり、利家の正室まつ(芳春院)が最も信頼を寄せる侍女であった。

 文禄の役の最中、肥前名護屋城の陣中にて懐妊し、まつのもと金沢城に帰還。文禄二年(1593年)、猿千代(のちの利常)を産んだ。

 利家の死後、髪をおろし寿福院と号す。慶長十九年(1614年)、十六年間徳川の人質となっていた芳春院に代わり江戸に下向。寛永八年(1631年)、当地にて没す。享年六十歳。

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伊達兵部大輔宗勝 無念にみちた余生、土佐高知での記録 [人物]

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 「且又兵部少輔ハ 先代之様子渕底乍存知 一入為不届之条 松平土佐守ヘ御預ケ

 伊達兵部宗勝は江戸時代、仙台藩最大のお家騒動寛文事件の中心人物である。

 寛文十一年(1671年)四月三日、兵部宗勝は、立花左近将監鑑茂、大井新右衛門政直、妻木彦右衛門と共に幕府評定所に召し出され、大目付大岡佐渡守忠勝、寺社奉行戸田伊賀守忠昌より山内土佐守豊昌への御預けを命ぜられた。豊昌公はその日のうちに評定所から芝三田の下屋敷へ、錠前を掛けた籠にて兵部の身柄を移し、同月十五日に178人の警護を付けて江戸を出立。二十八日、大阪で船に乗り換え、五月六日に土佐高知浦戸港に到着した。 

 仮に酒井雅楽頭邸における原田甲斐宗輔の刃傷が無かったとしても、「両人不和之故 家中仕置等不宜 年々刑罰之族不絶而  家中之輩 不成安堵之思」の兵部の責任は免れなかったであろう。

 配流された土佐での残された記録と史跡から、その後の生涯を追ってみた。

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千馬三郎兵衛光忠 主君への直言も厭わない堅物さと遺される家族への気遣いを併せ持つ一途な義士 [人物]

 赤穂四十七士千馬三郎兵衛と大石内蔵助の妻りくが三郎兵衛の遺児藤之丞に近況を知らせた手紙が、群馬県前橋市で発見された。鑑定の是非はまだだが、仮に真筆であるなら討入後も遺族間で交流があったことを証明する貴重な史料となりそうだ。

 三郎兵衛光忠は承応二年(1653年)の生まれ、祖父内蔵助は仙石兵部忠政の下で大阪の陣を戦ったが討死にしている。父求之助は摂津高槻藩の藩士であったが、後に浪人した。光忠は同族で赤穂浅野家に仕える三郎兵衛光利の養子となり、二十歳の時に家督を継ぎ、三郎兵衛を名のっている。

 千馬氏の祖は桓武平氏千葉氏である。鎌倉時代からの名家であったが、室町の頃から衰え、戦国時代にはそのほとんどが滅んでしまった。そのため、各地を放浪した子孫が先祖の名を汚さぬよう、千葉から千馬に改名したのだという。

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義僕甚三郎 本懐を遂げた赤穂四十七士を労った近松行重の家来 [人物]

 江戸時代の浮世絵師歌川国芳が描き、版元海老屋林之助が弘化四年(1847年)に刊行した錦絵『誠忠義士伝』は、討入姿の赤穂四十七士を描いた全51枚の連作である。この程、兵庫県赤穂市立歴史博物館は最後の一枚を入手し、コレクションをコンプリートさせた。全作品を揃えている国内の施設は、東京都立中央図書館と大石神社(兵庫県赤穂市)に次ぐ3番目だそうだ。

 近松勘六の家僕甚三郎は、元禄十五年十月七日大石内蔵助らと共に主人が江戸へ下向する際に同行していたが、討入が近づいたことで暇を出されていた。亡き内匠頭と直接関係のない者の同行は一切認めないのが方針だったが、甚三郎は討入当夜、一行の跡をつけ、浪士たちの同情者大石三平、佐藤条右衛門、堀部九十朗らと共に吉良邸の門外で待ち受けていた。そして、本懐を遂げた四十七士らへ懐に詰めておいた餅と蜜柑を配った。空腹と喉の渇きをいやした浪士たちから、これは気の利いた用意だとして大いに感心されたという。

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新選組一番隊組長 沖田総司 その終焉の地 [人物]

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 明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館に行ってきました。ここは幕末から明治の時代を、明治天皇を中心に描写した歴史絵画が展示されている美術館である。二条城での大政奉還や勝海舟と西郷吉之助の江戸無血開城談判の絵などは、おそらく教科書で一度は目にしたことのあるものだろう。絵の大きさは1メートル半四方はあったろうか、迫力があり、それらが時代を追って壁面に飾られ、時間の流れも理解しやすく展示されている。

 ここへ来た目的はもちろん、それらの絵画を鑑賞することでもあったが、一番は館内奥に展示されている御料馬「金華山号」の剥製を見たいと思っていたからだ。私は昨年、「後藤貞行と金華山号」という記事を投稿したが、その際いずれはこの剥製も見学したいと思っていて、それがようやく実現した次第なのである。

 剥製になった金華山号と後藤貞行が生み出した躍動感溢れる木像を単純に比較することは出来ないが、両方を見学できたことで、その生前の姿を思い浮かべることが一層容易になった。

 絵画館を出た後、私は自然と新宿御苑方面に足が向いてしまった。首都高のガードをくぐると、すぐそこは新選組の沖田総司が病没した植木屋平五郎の敷地があった場所だからだ。

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仏生寺弥助 天賦の才を持ちながら同郷の師からは認められなかった不遇の剣士 [人物]

 幕末の剣豪仏生寺弥助が京都で暗殺された後、埋葬された寺の過去帳に記述があったことが発見された。文久三年(1863年)六月二十五日の欄に一緒に殺害された高部弥三雄、三刀谷一馬と共に記されていたことと、戒名が一致したことで弥助の埋葬先が確実視されそうだ。

 仏生寺弥助は幕末江戸三道場の一つ、神道無念流練兵館が生んだ千人に一人の才を持った剣士であった。生まれは越中国氷見郡仏生寺村(現富山県氷見市)、道場の風呂炊きとして呼び寄せられた百姓の倅だった。故に苗字がなかったため、後に出生地の名をとり仏生寺を名乗った。

 稽古の様子を外からのぞいていたのを、門弟たちがからかい半分で竹刀を握らせてみると、思いの外筋がよく、向上心もあり瞬く間に稽古が進み十七歳で免許皆伝となった。大上段の構えからの面撃ちと前蹴りを得意とし、これを宣言しながらも相手は防げなかったという。

 しかし、放蕩癖があり無学だったため、塾頭にはなれず、道場では軽んじられ、次第に身を持ち崩してしまったようだ。

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