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川瀬巴水と仙台山の寺 [史跡]

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 東北地方の冬は駆け足でやって来る。仙台の街並みをあざやかな紅葉が彩る頃、西に連なる奥羽連山では雪化粧の便りが幾度も聞こえてくる。夕陽に染まった天と大小の灯火が明滅する仙台平野の境界線である山々のシルエットが、美しく際立つのもこの季節特有のものだ。

 仙台市泉区七北田山の寺洞雲寺。慢性的に渋滞が発生している4号バイパスから一歩道を外れると、周辺は振興住宅地として開発されてはいるが、その寺域は南北朝期に開山された当時と同じような静謐さを錯覚してしまう。

 過去にこの地を一人の芸術家が数度訪れたことがある。その人こそ大正・昭和に活躍した版画家川瀬巴水である。

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八ツ鹿踊り 政宗公より賜いし九曜の星を背負った八人の鹿 [史跡]

 昭和五十七年、現在の宮城県南三陸町戸倉水戸辺の高台土中から、この地区に伝わる鹿子踊の享保九年銘供養碑が発見された。表面には、「奉一切有為法躍供養也」、この世に生きる全てのものの供養のために躍りを奉納せよと刻まれていた。この発見は、長らく水戸辺地区で途絶えていた鹿踊り復活の契機となった。

 宮城県北部及び、岩手県南部の旧仙台伊達領、旧盛岡南部領内に伝わる鹿踊は、鹿に扮した踊手たちが祖霊供養を奉納する伝統舞踊である。地域によって流派が存在するが、一応に鹿の頭部を模した被り物と全身を反物で覆い、丈余のササラ竹を背負い鹿のように飛び跳ねるように舞う。それゆえ、発見された碑文にもあるよう、鹿踊は踊るではなく躍ると表記されるのが相応しいとされる。

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南州翁終焉の地 [史跡]

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 平成23年冬に予ねてからの念願であった鹿児島を訪れることが出来た。それは、幕末から明治維新への原動力となった偉人たちや西南戦争の史跡を見学することが最大の目的であったことは云うまでもない。しかし、そうした観光地として紹介されている場所を訪れること以外に、敬愛する西郷隆盛が生きていた当時の鹿児島にあった同じものを、何か見つけられないだろうかということも一つの目的としていました。

 もっとも、135年も前に亡くなった人の当時と同じものが現代にあるわけないといえばそうであるし、鶴丸城址や西郷洞窟は当時のままだといえばそうである。だが、私が見つけたかったものはそういうものではない。見ることも、手に取ることも出来ないもの。極端な例をいえば西郷さんが鹿児島で吸っていた空気のようなもの。言葉が足りないかもしれないが、霊的、あるいは精神的な何かとしか表現出来ない。

 もちろん、私は歴史学者でもなければ探検家でもない、ましてや霊能力者でもない。しかも、限られた時間の中では普通に考えてそんなもの見つけられるわけがない。それでも、そうした想いを持ちつつ観光してみると、やはり通常では見えてこない何かが見えてきそうな期待があったことも確かで、そんな期待を抱かせる魅力がこの鹿児島という街には溢れていました。

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女たちの伊達騒動 [史跡]

 仙台駅西口五橋1丁目交差点からJR高架下を抜け、仙塩地区産業道路に繋がる新寺通りと交差する宮沢根白石線の界隈、いわゆる新寺小路は藩政時代から寺社が多く集まる場所です。藩祖政宗公が慶長六年(1601)に仙台城下町割りに際し、東の守り(鬼門)としてこの地区に幾つかの寺院を配置し、更に寛永十四年(1637)に始まった第1次城下拡張によって、当時寺町であった寺小路から一部の寺院が移されて来ました。以降、二つの寺町は元寺小路、新寺小路と呼ばれるようになったわけです。(1)

 JR仙石線で一つ目の榴ヶ岡駅を降りると、中心街の喧騒さが信じられない静かな佇まいを見せてくれます。交通の利便性もあり、気軽に行き来が出来る新寺小路を、伊達騒動関連の史跡を中心に歴史散策してみました。

 駅から仙台サンプラザの前を南へ歩くと政岡墓所があります。この墓所には政岡のモデルとされる仙台藩三代藩主伊達綱宗公の正室三沢初子、二代藩主忠宗公正室振姫、四代藩主綱村公正室仙姫の三人の墓があります。 (2)

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 政岡というのは、歌舞伎「伽羅先代萩」に登場する亀千代丸の乳母のことです。伊達騒動の名が世間に広く知れ渡ったのは、この芝居と小説、大河ドラマ「樅ノ木は残った」というフィクションであったことは云うまでもありません。詳しいことは後日機会があれば書くつもりですが、政岡は近年の研究では三沢初子がモデルではなく、あくまで創作された人物であったろうとされています。にもかかわらず、現在も歴とした仙台藩藩主正室の墓所をフィクションのキャラクターの名前で案内しているところが、この史跡の面白いところだと思います。(3)

 墓所の向かいには案内所があり、ここで墓を管理している孝勝寺住持から説明を聞くことも出来るそうなのです。今回もそうでしたが、私が訪ねる時は休日に当たっていてこの件に関して質問できずにいます。ですが、一般に浸透している政岡の墓とすることで、この墓所を案内しやすかったであろうことは容易に想像できます。なお、普段は扉が閉まっているので見学出来ませんが、隣接する公園から中の様子を見ることは可能です。

 政岡墓所を後にし西へ歩きますと、上記した宮沢根白石線の大通りがあり、この向い側にある日蓮宗東北本山孝勝寺へと向います。孝勝寺の名は振姫の法号「孝勝院殿秀岸日訊大姉」からきているとおり、藩主正室の帰依により、当時大いに 隆盛を誇ったようです。仙台城城下絵図などを見ますと、現在よりも遥かに広大な寺域を有していたことが判ります。政岡墓所もそうですが、現在の仙台サンプラザまでも含める広さだったのです。

 この孝勝寺には、綱村公が生母三沢初子の死後、元禄八年(1695)に建立した釈迦堂が現存しています。元はこの場所ではなく宮城野の榴ヶ岡に建立されたのですが、昭和四十八年に宮城県図書館の建設に伴い移設されたものであります。綱村公が母の護持仏であった釈迦像を安置し、その功徳を領民にも及ぼそうとしたのがそもそもの経緯でありましたが、その隣接地には多くの枝垂桜を植え、芝居の興行を許可し、領民憩いの場としても提供したのです。これが現在の榴ヶ岡公園発祥の地となったわけです。

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 孝勝寺の釈迦堂の前には亀千代丸を抱く三沢初子の像があります。私は政岡のモデルが三沢初子ではないと書きましたが、この像を見ていると、政岡が実子千松を犠牲にしてまで、忠義と情愛で亀千代丸を守った場面と重なるものを感じます。生涯に渡り生母の愛を深く受け止めた綱村公は、初子の弟信濃宗直を一門に列し、竹に雀の伊達家家紋の使用を許し、これに報いています。(4)

(1)仙台藩の当時、元寺小路は現在の勾当台公園から広瀬通を経て鉄砲町に至る城下随一の幹線道路でした。定禅寺通や光禅寺通、花京院など、今使われている地名は当時同名の寺院がこの界隈にあったことに由来しています。

(2)忠宗公が三沢初子を綱宗公の側室とすることを、叔母であり振姫の老女紀伊に相談したところ、初子が名家の出身(父三沢権佐清長は美濃大垣城城主氏家志摩守広定の養子となり、関ヶ原の役後、流浪した)を理由に、正室としてならば婚姻を謹んでお受けすると答えた。忠宗公はこれを承知し、明暦元年(1655)正月、二人を結婚させた。しかし、公は幕府へは正規の結婚としては届けなかった。これは、将来の仙台伊達藩主正室としては初子の素性がふさわしくなかった事と、綱宗公が当時まだ未成年であったことが理由だとされている。だが、綱宗公は正室を娶ることなく、隠居してしまったので、初子は事実上の正室と認識されている。

(3)東京都目黒区正覚寺にも三沢初子の墓があります。この境内に、政岡を演じた尾上梅朝をモデルにした三沢初子の銅像があります。少々ややこしい感じもしますが、やはり政岡と三沢初子は、切っても切れない縁のようです。

(4)以前にも書きましたが、孝勝寺の山門は仙台城より拝領されたという言い伝えがあります。実に見事な山門で一見の価値はあります。なお、この寺域には参拝以外の出入りを禁ずる案内が出ています。写真撮影など、見学を希望する際は一言声を掛けてからが望ましいと思います。

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伊達綱村 仙台藩四代藩主以降の墓所 大年寺跡地を市が取得 [史跡]

 仙台市は、伊達家の霊廟(れいびょう)として栄えた旧大年寺(太白区)の敷地の一部を取得することを決めた。周辺の公園と一体的に整備し、自然豊かな憩いの場を提供する。市は「青葉区の仙台城跡や瑞鳳殿に次ぐ伊達家ゆかりの人気スポットとしてPRしていきたい」と話している。(2011.02.08河北新報)

 仙台藩第四代藩主綱村公の治世は、産業開発、文化奨励という面から見れば藩の黄金時代を築いたといえる。その中でも、黄檗(おうばく)禅宗に帰依した公が元禄十年(1697年)茂ヶ崎城跡(現仙台市太白区茂ヶ崎)に開基した両足山大年寺の七堂伽藍は、京都山城の本山萬福寺を擬し、壮麗を極めたという。また、その地は以降の歴代藩主廟所にもなった。

 藩祖政宗公から三代綱宗公までは、瑞鳳殿に代表される青葉山経ヶ峰に死後霊廟が建立されたが、綱村公の遺訓先規に従い毎世廟を建てなば後世子孫何を以て保たん、我死せば墓石を建て、瓦葺の屋根を覆うまでにすべしに従い、以降の藩主に御霊屋は建てられなかった。大年寺は、明治の廃仏毀釈にともない伊達家が仏式から神式になったため、その庇護を失い荒廃した。現在の寺は昭和になり再興されたものである。

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亀山本徳寺 西本願寺より移築された新選組屯所が本堂として現存 [史跡]

 まちづくりなどに取り組む姫路市のNPO法人「コムサロン21」が、世界遺産・姫路城を訪れる観光客に江戸時代の城下町にタイムスリップしたような雰囲気を楽しんでもらおうと、市民が和服姿でJR姫路駅周辺を歩くイベント「和服deひめじ」を31日と11月3、7日に行う。(2010.10.28YomiuriOnline)

 「平成の大修理」を行っている姫路城の観光客減に歯止めを掛けるため、幕末の志士や新選組隊士に扮したNPOのメンバーがイベントをPRしている。確かに播州出身の新選組隊士は数名いる。姫路出は平山五郎と鈴木練三郎など、服部武雄、河合耆三郎、松原忠司らも播州の出である。また、斎藤一は生まれは江戸だが、明石藩脱藩を自称している。しかし、歴史的には姫路市と新選組との大きな関わりはなかったといってよい。

 記事中にある縁があるという亀山本徳寺は、その本堂が明治六年に京の西本願寺北集会所(きたしゅえしょ)を移築したものだ。この北集会所は元治二年(1865)三月から慶応三年(1867)六月まで新選組が屯所として使用していた建物である。亀山本徳寺に北集会所が移築された際、それらの部材の加工を最小限に止めたので、現存する本堂は新選組が使用していた当時のままの遺構といえる。そのため、堂内の柱の一本には隊士がつけたと思われる刀痕が残っているほどだ。

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荘厳寺の逆さ門 [史跡]

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 仙台市青葉区片平町高等裁判所周辺はかつて仙台藩重臣の屋敷街でした。国老原田甲斐宗輔邸もその一角にありましたが、寛文事件後には破却されてしまいました。屋敷の裏手すぐに広瀬川が流れていましたので、壊された家屋の廃材は全て川に捨てられたとのことです。しかし、屋敷の薬医門のみは北山新坂の荘厳寺に移築されたと伝えられてきました。

 逆臣となった屋敷の門であることから、この門は部材を逆さに組んであり、これが「逆さ門」と云われる所以となっています。また、男子は悉く死罪となった原田家を荘厳寺で弔い、移築した門を今日まで保存してきたことに原田甲斐忠臣説を結びつける人もいるようです。

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酒井雅楽頭上屋敷跡 [史跡]

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 東京都千代田区大手町のオフィス街一角にある将門塚は、平安時代に関東で朝廷に謀反を起こした平将門の首を祀った場所である。もともとは将門の祟りを静めるために建立されたという経緯があるが、同区画は寛文11年(1671)3月27日に起きた、いわゆる寛文事件の舞台となった酒井家上屋敷の中庭だった場所でもある。

 東京駅から皇居へ向かう途中にあるこの史跡は、周囲の景色から少々隔絶した感がある。普段から交通量も多く、スーツ姿の人達が絶えず行き交っている。しかし、ここに一歩足を踏み入れると、都会の喧騒を一瞬忘れさせてくれる静寂を感じるのは何故だろう。大仰な言い方ではあるが、それが長い年月を積み重ねてきた歴史が持つ厳粛さというものかもしれない。

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仙台城 伊達藩の酒造り発祥地を証明する木簡が出土 [史跡]

 仙台市教育委員会は10日、同市青葉区の仙台城三の丸跡(現市立博物館)に隣接する江戸時代の御用酒屋「榧森(かやのもり)家」跡とみられる酒造屋敷跡発掘調査で、同家の六代当主にかかわる遺物や酒造りに関係する多数の遺物が発見され、調査地が酒造屋敷の一角であることが証明されたと発表した。(2009.12.11毎日jp)

 2008年秋に仙台市博物館が主催した「最後の戦国武将 伊達政宗」展には政宗公直筆の多くの書状が展示されました。その中には二日酔いが原因で公務を欠席する際、家臣に腹痛(むつけ)のためと相手に断るよう指示した手紙などもあり、実は宴席好きではあるがそれほど酒に強くなかったと思われる政宗像が浮き彫りになり面白かった記憶があります。

 これまで記録などから、仙台城三の丸に酒造所があったということは確認されていたが、それを裏付ける証拠は存在していなかった。記事にあるように城の中で酒造りをしていたという例は少ないようで、これは部類の酒好きとされる政宗を立証する大きな発見であるといえよう。

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纒向遺跡 卑弥呼の宮殿?国内最大級の建物跡を発見  [史跡]

 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市辻の纒向遺跡で、3世紀前半で国内最大の大型建物跡が見つかったと桜井市教育委員会が10日に発表した。(2009.11.11奈良新聞)

 今回発表のあった大型の建物跡とは、今年3月に発見されたそこに連なる西端の建物跡から東に続く3棟のうちの一つです。3月に私が書いたBlogを読むと、桜井市教育委はその時点で大型の神殿のような中心的な建物の発見を予想していました。実際に発見された建物跡を卑弥呼の王宮であると確定するのは時期尚早かもしれませんが、弥生から古墳時代にかけての国内の大型建物跡としては、佐賀県吉野ヶ里遺跡で発見された祭殿をしのぐ最大級のものであるということは確かなようです。

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