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長州砲 10ヶ月の里帰り展示を終え英国へ (追記) [史実]

 1864年の長州藩と四ヶ国連合艦隊の、いわゆる馬関戦争の際に使用された青銅製の「長州砲」が英国へと戻されるため荷造りされた。この大砲は昨年の明治維新(1868)140年と日英国交150年の記念行事の一環として里帰りが実現し、山口県萩博物館で今年5月まで展示されていたものだ。(2009.6.2山口新聞)

 馬関戦争とは1864年(元冶元年)7月、攘夷の名の下に前年より関門海峡を封鎖していた長州藩に対して、英をはじめ仏蘭米の四ヶ国の連合艦隊が下関の砲台を艦砲射撃で沈黙させた後、陸戦隊が上陸占拠した事件のことである。この戦争により、長州藩は外国の知識と技術を進んで取り入れ、倒幕へと政策を転換させた。

 

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鳥取藩付属山国隊 檄文に応じ出陣し戦後上下身分を開放した義勇兵たち [史実]

 毎年10月に行われる京都の三大祭「時代祭」の行列の先頭を行く山国隊の地元京都市右京区京北の山国地区で、10月9日第21回山国さきがけフェスタが行われた。

 丹波山国郷で結成された山国隊は、地域の名称とは異なる「さんごくたい」と昔から呼ばれている。京都三大祭時代祭の行列の先頭を受け持つ集団といえば思い出される人も多いであろう。

 洛北の山を隔てた山国郷は、桓武天皇が平安遷都を行った際に内裏造営のための材木を供出し、大嘗会毎に荒木を献上するという皇室と深い関わりのある歴史を持った土地である。

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ガリポリの戦い(1915年) [史実]

 第一次世界大戦中の1915年4月25日、ドイツの同盟国オスマン帝国の首都コンスタンティノープルに進撃すべき連合国軍はダーダネルス海峡西側のガリポリ半島に上陸作戦を敢行した。しかし、事前に塹壕と重機関銃で待ち構えていたオスマン軍の強力な抵抗に合い、翌年1月に全軍撤退した。

 オーストラリア・ニュージーランド軍(ANZAC)は、エーゲ海に面した半島西側、現在アンザック入江と呼ばれる地点に上陸し多大な犠牲を払うことになったが、両国は4月25日をアンザック・ディとし祝日に制定している。

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大田・絵堂の戦い 維新史から葬られた長州藩の佐幕派 [史実]

 幕末、長州藩の諸隊と萩政府軍の内戦、「大田・絵堂戦役」から150年を機に、勝利した奇兵隊をはじめ諸隊が本陣を置いた山口県美祢市美東町大田の金麗社において、同戦役戦没者顕彰碑の除幕式があった。

 元治二年正月(1865年)、萩藩政府(俗論派)は、筑前に逃亡中であった高杉晋作が武装決起したことを知り、追討軍を絵堂(現山口県美弥市美東町)に派遣した。下関功山寺で晋作が決起した当初は、遊撃隊80人程しか同調しなかったが、同月二日下関の伊崎新地会所を襲撃した際、挙兵の趣旨を記した高札(討奸檄)を掲げ、同様の文書を奇兵隊及び諸隊に送ることではじめて正義派の足並みが揃うこととなった。

 同月七日、絵堂に兵を進めていた栗谷帯刀率いる追討軍1000余名に対して、未明に奇兵隊、南国隊、膺懲隊の兵200が奇襲を掛け、これを敗走させた。更に諸隊は絵堂背後の大田、長登、秋吉を占領。狭隘な絵堂の地が防戦に不向きだったので、大田を根拠地とした。

 戦闘は10日あまり続き、装備の優劣と圧倒的な民衆の支持を得た諸隊側の勝利で終わった。こうして、長州藩は幕府への恭順から一転、維新へ続く倒幕へと舵を切ることとなった。

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聖骸顕示 フランシスコ・ザビエルの遺骸が10年振りに公開される [史実]

 インド南部の都市ゴア州オールドゴアで、天文十八年(1549年)に日本へ初めてキリスト教を伝道した宣教師フランシスコ・ザビエルの遺体が10年振りに公開された。

 日本における2年間の布教活動の後、インドへ戻ったザビエルは、日本人が彼の教えを尊いものだと理解しながらも改宗にまでは至らない理由を次のように答えを出していた。日本人は常に中国を先進国として見習ってきた歴史を持っていることから、神の話が尊いものであるのに、何故中国人はキリスト教を信じないのかと疑問を感じる者が多かったためだという。

 日本での伝道を成功させるためには、まず中国での布教をひろめてからだとする計画は、インドへの船便の中ですでに考えられていた。天文二十年(1552年)、広東の牢獄に囚われているポルトガル人の釈放を求める使節として入国の機会を得たザビエルであったが、この計画は直前になって頓挫した。同年八月下旬、純粋な布教を目的として、広東沖合の上川島(現広東省江門市)に渡航した。この島は当時明とポルトガルの密貿易の拠点であった。明国での布教は当然認められていないため、多額の賄賂を使い本土への密航の機会を伺っていたが、賄賂を渡した中国人は現れなかった。その間にザビエルは病に倒れてしまい、手当の甲斐なく十二月三日に永眠した。享年47歳だった。

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野根山事件 土佐安芸郡二十三士処刑から150年の節目に企画展が開催される [史実]

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 元治元年(1864年)に土佐藩で起きた野根山二十三士の処刑から今年で150年を迎え、地元安田町の安田まちなみ交流館「和(なごみ)」で企画展「国難に殉じた郷土の志士」が11月25日(火)まで開かれている。

 野根山事件は、土佐藩に投獄されていた武市瑞山の赦免、及び攘夷を実行に移した長州藩に同調しない藩庁への批判も含め、安芸郡田野村(現高知県安芸郡田野町)の郷士清岡道之助を中心とした23人が武装集結し、これを反乱と受け止めた藩が兵を動員、一時阿波に逃れたものの捕縛され、審問も開かれることなく奈半利川河原で全員を処刑した事件のことである。

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長州藩振武隊 切り捨てられた志、維新功労者たちの末路 [史実]

  戊辰戦争において、長州藩の主力であった諸隊の一つ振武隊の隊士藤山佐熊を隊中様として供養し続ける山口市平川地区で、地元奉賛会により供養祭が執り行われた。

  文久三年五月、長州藩は攘夷の先駈けとして、馬関、赤間関沿岸砲台から関門海峡を航行する外国籍船舶に対して砲門を開いた。だが、翌月の米仏軍艦による反撃に前田、壇ノ浦砲台は壊滅を喫し、陸戦隊により沿岸を占拠されてしまった。藩主毛利敬親公は剃髪し隠棲していた高杉晋作を呼び戻し、下関防衛の任を与えた。晋作は「臣に一策あり」と、藩正規軍とは異なる寡兵を持って虚を衝き、寄道を持って勝を制する、いわゆる奇兵隊の創設を提唱した。

 周知のように奇兵隊が日本史上真に新しき軍隊であったのは、志があれば身分を問わずに入隊を認めた点にある。新式銃を主力兵器とし、簡素化した装備と合理的な西洋式戦術により奇兵隊は藩の主力部隊に成りえただけでなく、戊辰戦争の中核をなす存在へと駆け上がってゆく。

 一方、民衆のナショナリズムをエネルギーに強大な力を得た長州藩では、奇兵隊同様の部隊が続々と誕生した。現在確認されているだけでも、その数は官民合わせて400を超えるという。これらの部隊は総じて「諸隊」と呼ばれるようになる。(1)

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官兵衛の兜 黒田騒動の中心人物栗山大膳が伝えた至宝 [史実]

 豊臣秀吉の軍師であった黒田孝高が実際に着用していた唯一現存する兜が、岩手県盛岡市のもりおか歴史文化館に所蔵されている。現在放送中の大河ドラマ「軍師官兵衛」のオープニングにも登場するだけあって、全国の博物館への出張展示が引切り無しの人気だという。

 この兜は大膳の父である栗山備後守利安(善助)が、如水孝高から直接譲られたものである。寛永年間の黒田騒動の際に、盛岡藩へお預けとなった大膳利章の子孫が後に南部家に召抱えられ、これを献上したのが当地に伝わる由来である。

 慶長九年(1604年)三月、孝高は今際の際に備後利安に筑前守(長政)への補佐を遺言し、九州征伐で使用した合子形兜と唐革縅の鎧を与えた。お椀を逆さに伏せた形の合子形兜は、官兵衛の正妻光の実家櫛橋家から贈られたもので、常に戦場で身に着けてきたものだ。官兵衛はこの兜が余程気に入っていたのであろう。善助に与えた兜が後年のもののようだから、同じ形のものを幾つか作らせていたのかもしれない。そして、それこそが今話題になっている現存する官兵衛の兜なのだ。

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黒田清隆 西南戦争衝背軍11日間滞陣の真相を検証 [史実]

 甲佐町生涯学習センターで4日、「西南戦争 甲佐・堅志田の戦い資料展」が始まった。甲佐の歴史を語る会が、佐土原歴史史料館(宮崎市)の協力を得て企画。28日まで。(2013.2.5 くまにちコム)

 明治十年三月十九日、西南戦争最大の激戦田原坂の攻防はクライマックスを迎えようとしていた。同日未明、熊本城南約40kmの須口の浜に黒木為楨中佐の二個大隊と警視隊五百人が、海軍艦船鳳翔の援護の下、上陸に成功した。

 開戦早々、薩摩出身の高島鞆之助大佐は鹿児島県士族の弱点を「進むを知って退くを知らず。勇猛果敢だが、臨機応変に欠ける」とし、よって八代(現熊本県八代市)辺りを占領し熊本と鹿児島を遮断すべし、と意見具申していた。当初、山県有朋参軍はこれを採り上げることをしなかったが、同月十四日政府は黒田清隆中将を征討参軍に衝背軍を編成した。高島大佐は別働第ニ旅団の司令長官、山田顕義少将に第三旅団、大警視川路利良少将が第四旅団(警視隊)をそれぞれ率いた。

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元治元年の長州征討 西郷吉之助の献策は現代に通じる指針と成りえるか [史実]

  アルジェリアでのイスラム武装勢力による人質事件の契機となった隣国マリへのフランス軍による武力介入を巡り、欧米の誤算が引き金となったとの見方が出始めている。マリでのイスラム武装勢力の実力を見誤り、急激な直接介入を行わざるを得なかった欧州の誤算や、米軍がマリ政府軍を訓練したが、一部が反乱に寝返った誤算が指摘されている。(2013.1.19 毎日jp)

 元治元年七月の禁門の変により、朝敵となった長州藩に対して、将軍徳川家茂は征討令を発した。総督に前尾張藩主徳川慶勝、副総督に越前藩主松平春嶽、そして、薩摩藩士西郷吉之助に参謀を命じ、諸藩から15万の兵を召集させた。

 同月、下関の沿岸砲台を壊滅させた四ヶ国連合艦隊が大阪湾に近づく気配を見せたため、西郷はこの問題を一刻も早く解決すべく必要に迫られた。征長総督の任命に幕府が手間取る間、西郷は以前から長州に放ってあった密偵の報告により、禁門の変後に長州藩の保守派が勢いを盛り返したことと、支藩である清末、徳山、岩国の三藩が抗戦的な本藩に批判を強めていたことを探知し、「長人をして長人を処置させる」を上策とし、これを献言した。

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