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邨田丹陵と大政奉還図 [史実]

 2017年10月に大政奉還から150年を迎える。各地で幕末維新150年のイベントと並行して、京都をはじめ大政奉還150年記念プロジェクトも開催されている。

 人は言葉に対して、そのイメージを思い浮かべるものである。個人の名前からはその人の容姿を頭に描くのは至極普通のことだ。

 私達は「大政奉還」という言葉からは何を思い浮かべるだろう。おそらく多くの人が教科書にも載っていた邨田丹陵の「大政奉還」図をイメージするのではないだろうか。ドラマの一場面でもこの画を元に再現しているものがほとんどである。

 しかし、大政奉還とは大まかにいえば幕府が朝廷に政権を返上するということのはず。ところが、当の画には天皇や公家衆の姿はどこにもない。将軍慶喜が大政奉還を決断した時の描写であろうから、間違いではないが、どこか違和感を感じるのは私だけではないはずだ。

 150年の節目となる今、大政奉還という史実に光が当てられているが、何より私達が大政奉還と密接に結び付くものは邨田丹陵の画であることは疑う余地はない。あらためて「大政奉還図」に注目してみることにした。

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南北戦争チャールストン港の戦い ワグナー砦で戦死したショー大佐の剣が発見される [史実]

 米国南北戦争において、1863年7月18日フォートワグナー攻略中に戦死した第54マサチューセッツ歩兵連隊の指揮官ロバート・グールド・ショー大佐の剣が子孫宅の屋根裏から発見され、マサチューセッツ歴史博物館に寄贈された。

 1861年早々、米国民の視線はサウスカロライナ州チャールストン港の三つの砦、ピンクニ―城、ムールトリ―砦、サムター砦に注がれていた。前年に黒人奴隷開放を掲げるリンカーンが大統領に就任した直後連邦を離脱したサウスカロライナ州の中で、この三砦だけが連邦の守備隊が守っていたからである。

 前年12月、ムールトリ―砦守備隊長ロバート・アンダーソン少佐は防衛に不利なことを鑑み自己判断で隊をサムター砦に移動した。これに対して、サウスカロライナ住民は、ブキャナン前大統領の公約である現状維持を破る行為だとし対決姿勢を明確にした。(1)

 新大統領リンカーンは食料が底を尽きかけたサムター砦に救援を派遣するも、南部連合軍はアンダーソンに降伏勧告を行った。流血を避けるつもりであったアンダーソンは降伏の期日を明言したが、1861年4月12日4時30分ジョンソン砦からの一発の砲弾が、米国史上最大の内戦の幕を落としてしまった。

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長州砲 10ヶ月の里帰り展示を終え英国へ (追記) [史実]

 1864年の長州藩と四ヶ国連合艦隊の、いわゆる馬関戦争の際に使用された青銅製の「長州砲」が英国へと戻されるため荷造りされた。この大砲は昨年の明治維新(1868)140年と日英国交150年の記念行事の一環として里帰りが実現し、山口県萩博物館で今年5月まで展示されていたものだ。(2009.6.2山口新聞)

 馬関戦争とは1864年(元冶元年)7月、攘夷の名の下に前年より関門海峡を封鎖していた長州藩に対して、英をはじめ仏蘭米の四ヶ国の連合艦隊が下関の砲台を艦砲射撃で沈黙させた後、陸戦隊が上陸占拠した事件のことである。この戦争により、長州藩は外国の知識と技術を進んで取り入れ、倒幕へと政策を転換させた。

 

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鳥取藩付属山国隊 檄文に応じ出陣し戦後上下身分を開放した義勇兵たち [史実]

 毎年10月に行われる京都の三大祭「時代祭」の行列の先頭を行く山国隊の地元京都市右京区京北の山国地区で、10月9日第21回山国さきがけフェスタが行われた。

 丹波山国郷で結成された山国隊は、地域の名称とは異なる「さんごくたい」と昔から呼ばれている。京都三大祭時代祭の行列の先頭を受け持つ集団といえば思い出される人も多いであろう。

 洛北の山を隔てた山国郷は、桓武天皇が平安遷都を行った際に内裏造営のための材木を供出し、大嘗会毎に荒木を献上するという皇室と深い関わりのある歴史を持った土地である。

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ガリポリの戦い(1915年) [史実]

 第一次世界大戦中の1915年4月25日、ドイツの同盟国オスマン帝国の首都コンスタンティノープルに進撃すべき連合国軍はダーダネルス海峡西側のガリポリ半島に上陸作戦を敢行した。しかし、事前に塹壕と重機関銃で待ち構えていたオスマン軍の強力な抵抗に合い、翌年1月に全軍撤退した。

 オーストラリア・ニュージーランド軍(ANZAC)は、エーゲ海に面した半島西側、現在アンザック入江と呼ばれる地点に上陸し多大な犠牲を払うことになったが、両国は4月25日をアンザック・ディとし祝日に制定している。

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大田・絵堂の戦い 維新史から葬られた長州藩の佐幕派 [史実]

 幕末、長州藩の諸隊と萩政府軍の内戦、「大田・絵堂戦役」から150年を機に、勝利した奇兵隊をはじめ諸隊が本陣を置いた山口県美祢市美東町大田の金麗社において、同戦役戦没者顕彰碑の除幕式があった。

 元治二年正月(1865年)、萩藩政府(俗論派)は、筑前に逃亡中であった高杉晋作が武装決起したことを知り、追討軍を絵堂(現山口県美弥市美東町)に派遣した。下関功山寺で晋作が決起した当初は、遊撃隊80人程しか同調しなかったが、同月二日下関の伊崎新地会所を襲撃した際、挙兵の趣旨を記した高札(討奸檄)を掲げ、同様の文書を奇兵隊及び諸隊に送ることではじめて正義派の足並みが揃うこととなった。

 同月七日、絵堂に兵を進めていた栗谷帯刀率いる追討軍1000余名に対して、未明に奇兵隊、南国隊、膺懲隊の兵200が奇襲を掛け、これを敗走させた。更に諸隊は絵堂背後の大田、長登、秋吉を占領。狭隘な絵堂の地が防戦に不向きだったので、大田を根拠地とした。

 戦闘は10日あまり続き、装備の優劣と圧倒的な民衆の支持を得た諸隊側の勝利で終わった。こうして、長州藩は幕府への恭順から一転、維新へ続く倒幕へと舵を切ることとなった。

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聖骸顕示 フランシスコ・ザビエルの遺骸が10年振りに公開される [史実]

 インド南部の都市ゴア州オールドゴアで、天文十八年(1549年)に日本へ初めてキリスト教を伝道した宣教師フランシスコ・ザビエルの遺体が10年振りに公開された。

 日本における2年間の布教活動の後、インドへ戻ったザビエルは、日本人が彼の教えを尊いものだと理解しながらも改宗にまでは至らない理由を次のように答えを出していた。日本人は常に中国を先進国として見習ってきた歴史を持っていることから、神の話が尊いものであるのに、何故中国人はキリスト教を信じないのかと疑問を感じる者が多かったためだという。

 日本での伝道を成功させるためには、まず中国での布教をひろめてからだとする計画は、インドへの船便の中ですでに考えられていた。天文二十年(1552年)、広東の牢獄に囚われているポルトガル人の釈放を求める使節として入国の機会を得たザビエルであったが、この計画は直前になって頓挫した。同年八月下旬、純粋な布教を目的として、広東沖合の上川島(現広東省江門市)に渡航した。この島は当時明とポルトガルの密貿易の拠点であった。明国での布教は当然認められていないため、多額の賄賂を使い本土への密航の機会を伺っていたが、賄賂を渡した中国人は現れなかった。その間にザビエルは病に倒れてしまい、手当の甲斐なく十二月三日に永眠した。享年47歳だった。

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野根山事件 土佐安芸郡二十三士処刑から150年の節目に企画展が開催される [史実]

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 元治元年(1864年)に土佐藩で起きた野根山二十三士の処刑から今年で150年を迎え、地元安田町の安田まちなみ交流館「和(なごみ)」で企画展「国難に殉じた郷土の志士」が11月25日(火)まで開かれている。

 野根山事件は、土佐藩に投獄されていた武市瑞山の赦免、及び攘夷を実行に移した長州藩に同調しない藩庁への批判も含め、安芸郡田野村(現高知県安芸郡田野町)の郷士清岡道之助を中心とした23人が武装集結し、これを反乱と受け止めた藩が兵を動員、一時阿波に逃れたものの捕縛され、審問も開かれることなく奈半利川河原で全員を処刑した事件のことである。

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長州藩振武隊 切り捨てられた志、維新功労者たちの末路 [史実]

  戊辰戦争において、長州藩の主力であった諸隊の一つ振武隊の隊士藤山佐熊を隊中様として供養し続ける山口市平川地区で、地元奉賛会により供養祭が執り行われた。

  文久三年五月、長州藩は攘夷の先駈けとして、馬関、赤間関沿岸砲台から関門海峡を航行する外国籍船舶に対して砲門を開いた。だが、翌月の米仏軍艦による反撃に前田、壇ノ浦砲台は壊滅を喫し、陸戦隊により沿岸を占拠されてしまった。藩主毛利敬親公は剃髪し隠棲していた高杉晋作を呼び戻し、下関防衛の任を与えた。晋作は「臣に一策あり」と、藩正規軍とは異なる寡兵を持って虚を衝き、寄道を持って勝を制する、いわゆる奇兵隊の創設を提唱した。

 周知のように奇兵隊が日本史上真に新しき軍隊であったのは、志があれば身分を問わずに入隊を認めた点にある。新式銃を主力兵器とし、簡素化した装備と合理的な西洋式戦術により奇兵隊は藩の主力部隊に成りえただけでなく、戊辰戦争の中核をなす存在へと駆け上がってゆく。

 一方、民衆のナショナリズムをエネルギーに強大な力を得た長州藩では、奇兵隊同様の部隊が続々と誕生した。現在確認されているだけでも、その数は官民合わせて400を超えるという。これらの部隊は総じて「諸隊」と呼ばれるようになる。(1)

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官兵衛の兜 黒田騒動の中心人物栗山大膳が伝えた至宝 [史実]

 豊臣秀吉の軍師であった黒田孝高が実際に着用していた唯一現存する兜が、岩手県盛岡市のもりおか歴史文化館に所蔵されている。現在放送中の大河ドラマ「軍師官兵衛」のオープニングにも登場するだけあって、全国の博物館への出張展示が引切り無しの人気だという。

 この兜は大膳の父である栗山備後守利安(善助)が、如水孝高から直接譲られたものである。寛永年間の黒田騒動の際に、盛岡藩へお預けとなった大膳利章の子孫が後に南部家に召抱えられ、これを献上したのが当地に伝わる由来である。

 慶長九年(1604年)三月、孝高は今際の際に備後利安に筑前守(長政)への補佐を遺言し、九州征伐で使用した合子形兜と唐革縅の鎧を与えた。お椀を逆さに伏せた形の合子形兜は、官兵衛の正妻光の実家櫛橋家から贈られたもので、常に戦場で身に着けてきたものだ。官兵衛はこの兜が余程気に入っていたのであろう。善助に与えた兜が後年のもののようだから、同じ形のものを幾つか作らせていたのかもしれない。そして、それこそが今話題になっている現存する官兵衛の兜なのだ。

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