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田原坂 日本内戦史上最大の激戦地で想いを馳せる [古戦場]

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田原坂ノ北タルヤ。外昴ク内低ク、恰モ凹字形ヲ成シ、坂勢峻急、加ウルニ一陟一降ノ曲折ヲ以テシ、茂樹灌木之ヲ蔽ヒ鬱蒼トシテ昼暗ク、洵ニ天険ト為ス」 参謀本部編纂『征西戦記稿』より

 明治十年(1877年)ニ月ニ十五日から高瀬(現熊本県玉名市高瀬)において、薩摩軍と征伐軍が菊池川を挟んで三度の激戦を繰り広げた。西南戦争中、両軍主力が積極果敢に攻勢に出た最初で最後の野戦、いわゆる高瀬会戦である。数に劣る薩軍であったが、それを上まわる士気で一進一退の攻防を演じたものの、幾つかの不幸な出来事により撤退を余儀なくされた。(1)

 高瀬での戦闘後、征伐軍は兵力を集中させるために数日を使った。その間、薩軍にも北は味取山から田原、吉次を越え有明海に至る強力な南北の防衛線を構築する時間を与えてしまっている。征伐軍主力は当時大砲を移動出来る唯一の田原坂を進み、支隊は吉次峠を、三月四日より本格的な攻撃を開始した。この方面での戦闘は薩軍が防御線を解く四月十五日まで、両軍合わせて4000名以上の死傷者を出してしまい、中でもわずか80m高低の丘陵地田原坂は日本戦史史上最大の激戦地となってしまった。

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田原坂・吉次峠 西南戦争の古戦場を国史跡へ  [古戦場]

 熊本県玉東・植木町にまたがる西南戦争の遺跡群を国史跡指定に向けて取り組むことが決定された。7月末には協議会が設立され、調査や保存、活用法を検討する方針だという。(2009.6.6YomiuriOnline)

 明治十年(1877年)3月1日~31日、田原坂・吉次峠方面で西南戦争最大の激戦が行われた。堅牢な熊本城を攻めあぐねた薩摩軍は、南下してくる官軍を防ぎ止めるために最低限の包囲の兵士だけを残し、本隊は北進をすることに作戦を変更した。

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『菊池川に架かる高瀬大橋から稲荷山を望む。勇猛果敢に戦った桐野利秋であったが、部隊数が足りず、一足先に征伐軍に稲荷山を押えられてしまった。』

 両軍が本格的に激突したのが2月20日から始まった高瀬口での戦いである。薩軍は官軍を農村から徴兵した百姓兵と侮っていたが、ここにきて簡単に勝てないことを悟ることになる。この戦闘で勝負を決しようとしていた薩軍は西南戦争中もっとも果敢に戦ったが、幾つかの要因が重なり敗退する結果に終わった。更に、高瀬北にある小さな稲荷山の帰趨が、大局的に西南戦争の勝敗を大きく左右する事になった。勝利した官軍の本隊は退却した薩軍が陣を敷く田原坂方面に進出させ、支隊を吉次峠にと進出させた。

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関ヶ原 慶長5年(1600)当時の集落調査を開始  [古戦場]

岐阜県関ヶ原町の古戦場の当時の集落や田畑、人口構成などの調査事業を地元の自治体が開始する。国内に古戦場は数あるが、集落調査を行うのは極めて珍しいという。(2009.5.25中日新聞)

関ヶ原の合戦の東西両軍布陣図を見ると、戦場となった場所は北国街道、中山道、伊勢街道が交差する要衝であったことが判ります。街道が交わる場所=人の往来が多い、すなわち宿場町が発展すると考えがちであります。確かにここには中山道の関ヶ原宿という宿場が置かれていましたが、それはこの天下分け目の戦いが終わった後、徳川幕府が全国の街道を整備し、宿場を設定してからのことです。

しかし、記事中にあるように合戦の行われた当時、宿場をはじめ若干の人家が存在していて2000人くらいの人口があったとしています。その頃の規模で2000人の集落というのは決して小さくはなかったはずです。となれば、両軍合わせて約17万人が集結した戦場の地元民の被害が甚大でなかったはずがないことも想像出来ます。

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