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現在の日本男優に西郷隆盛を演じきれる人物はいるのか? [topics]

 2018年NHK大河ドラマの主人公が幕末の英雄西郷隆盛に内定したとの記事を、週刊ポスト2016年9月9日号が伝えた。

 南洲翁の名が挙がった理由として、記事にも書かれてるが熊本地震の復興と明治維新150年の意味合があるのではと推測している。確かに、2013年の「八重の桜」も東日本大震災からの東北復興という大きな名目があったことは周知の事実だ。

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李方子 日本から朝鮮王朝最後の皇太子に嫁いだ妃銘の高麗茶碗 [人物]

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 李方子(り・まさこ、イ・バンジャ 明治34年11月4日-平成元年4月30日)は、旧宮家梨本宮家の長女として生まれ、大正9年4月に李氏朝鮮皇太子李垠と婚姻した。

 太平洋戦争の敗戦により、王族としての身分と日本国籍を失う。夫の母国である大韓民国からも拒否され、帰国が叶ったのは昭和38年になってからだった。

 長らく病を患っていた夫は昭和45年に死去し、韓国政府からの扶助により昌徳宮殿内の楽善斎で余生を過ごすこととなった。 そして方子は、夫の遺志であった韓国の障害児教育普及に尽力することにその生涯を捧げた。(1)

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ナポレオン・ボナパルトとヴィジル号 [topics]

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 フランス・パリの軍事博物館が所蔵する仏国皇帝ナポレオンの愛馬ヴィジル号剥製のクラウドファンディングによる修復が行われた。

 ヴィジル号は、1802年6月25日仏国がオスマン帝国との平和条約締結の際、スルタン・セリム3世から友情の証としてナポレオンに贈られたものだ。記録によると、体長1.35m、アラビア種の牡馬で色は斑入りのグレーだったという。左臀部にクラウンを載せたNが焼印されている。

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忠僕元助 生涯を掛けて四十七士の冥福を祈った従僕の供養祭が行われる [人物]

 赤穂四十七士片岡高房に仕えた上州下秋間字館(現群馬県安中市下秋間)の元助と四十七士の冥福を祈る「忠僕元助供養祭」が所縁の地元三ヶ所で行われた。

 元禄十六年二月四日(1703.3.20)、主人片岡源五右衛門が江戸細川家中屋敷で切腹した後、彼の従僕元助は郷里秋間村に戻り剃髪した。諸国を巡錫し小さな蓄えをもとに、20年の歳月をかけて東上秋間岩戸山に浅野内匠頭、瑤泉院と四十七士の石像を建立し、その冥福を祈った。  

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新選組平士 佐野七五三之助 二張の弓は引かず、死の真相は自刃か暗殺か [人物]

 愛知県蟹江町出身の新選組隊士佐野七五三之助を偲び、当町所縁の人物として世に広めようとイベントが行われた。
 
 天保七年(1836年)尾州生まれの佐野七五三之助は正規の尾張藩士であったが、攘夷を志すため脱藩し浪人となった。
 
 文久三年(1863年)に神奈川奉行所支配の横浜外国人居留地警衛隊に身を置くことで、後の高台寺党篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄らと親交を深めた。更にその縁で、佐野の運命を左右する伊藤大蔵(甲子太郎)とも出会うことになる。
  
 同年三月、酔った英国水兵が居留地運上所に乱入する事件が発生。警備担当であった佐野らは、彼らを捕縛し反省させるため拘束したまま海岸に放置した。ところが、英国側が海岸に引き据えたことを抗議する事態となり、奉行所は佐野らを処分することで安易にその場を納めようとした。
 
 切腹を命じられ、自らの大義を遂げる前に果てることだけは避けたかった佐野たちは横浜を脱走した。 
 
 息を潜めていた彼らは翌年の元治元年十月、伊藤から新選組に加入するため共に京へ行かないかと持ち掛けられた。その年の六月に池田屋騒動で全国にその名が知れ渡っていた新選組への参加と、逃亡生活を終えることから断る理由は見当たらなかった。(1)
 

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乃木静子 人間乃木希典を支えた夫人の銅像を再建へ [人物]

 日露戦争陸軍第三軍司令官乃木大将の夫人静子の銅像は、戦時中に回収されるまで生誕地である鹿児島県鹿児島市新屋敷町にあった。戦後、長らく市民から再建の声が上がっていたが、この度広く募金を募り同地に再び建立する運びとなった。

 乃木静子は薩摩藩上士の湯地家の生まれ。明治維新までは減禄処分を受け、十人扶持の奥医師という体面であったが、たいそう貧乏であったという。だが、薩摩という気風の例にもれず、この家も赤貧でありながら明るい気質を備えた家庭であったそうだ。

 静子は七番目の子供からお七という名が本名であった。婚姻後、希典がその名が婦人の犯罪者を連想させるというので、自らの号「静堂」から一字をとって 静子に改名させた。

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川原塚茂太郎重幸 龍馬が心の悩みを打ち明け、実家との橋渡しとなった義兄 [人物]

 高知県立坂本龍馬記念館では、1月22日まで龍馬を陰で支え、志を継いだ彼の家族との交流を紹介する企画展が開催されている。

 展示品目の中の文久三年(1863年)八月十九日付け川原塚茂太郎宛の書簡は、実家の兄権平が龍馬に坂本家を継ぐよう願っていることに対する自分の悩みを打ち明けた内容の手紙である。

 当時、龍馬は軍艦奉行並勝麟太郎の門下生となり、神戸海軍操練所設立のために奔走していた。すなわち、自らの進路を見出し、人生の大海原に港から出航したばかりの時期と重なる。熱い思いを胸に脇目も振らずに目標に向かって突き進もうとしていた反面、実家からの要望には心を痛めていた。この手紙は、そんなどこにでもいる普通の青年坂本龍馬を垣間見ることが出来る珍しい書簡だ。

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タグ:坂本龍馬
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川瀬巴水と仙台山の寺 [史跡]

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 東北地方の冬は駆け足でやって来る。仙台の街並みをあざやかな紅葉が彩る頃、西に連なる奥羽連山では雪化粧の便りが幾度も聞こえてくる。夕陽に染まった天と大小の灯火が明滅する仙台平野の境界線である山々のシルエットが、美しく際立つのもこの季節特有のものだ。

 仙台市泉区七北田山の寺洞雲寺。慢性的に渋滞が発生している4号バイパスから一歩道を外れると、周辺は振興住宅地として開発されてはいるが、その寺域は南北朝期に開山された当時と同じような静謐さを錯覚してしまう。

 過去にこの地を一人の芸術家が数度訪れたことがある。その人こそ大正・昭和に活躍した版画家川瀬巴水である。

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馬場出雲親成 真筆ならば唯一現存する政宗公自筆画が発見される [topics]

 仙台藩祖伊達政宗が描いたとされる画が宮城県塩竈市の旧家で保存されていることが判った。これまで政宗公自筆の絵は現存していないとされていたが、真筆と鑑定されれば唯一のものとなる可能性がある。

 戦前、宮城県内に政宗公の自筆とされる画が2点確認されていたが、現在は行方不明だという。公表された「貞山公御自筆梅雀画」は、春先のまだ寒さの残る陽だまりの中、綻んだ梅の枝に寄り添い暖を取る二羽の雀が描かれている。

 記事から、公は絵を学んだことはないらしいが、画は江戸期前半の狩野派の画風ということだ。

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五代友厚 連続テレビ小説は朝の大河ドラマ、ヒロインの精神的支柱に脚光 [人物]

 現在放送中のNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公白岡あさは、明治の女性実業家広岡浅子をモデルに、その生涯をドラマ化したものだ。浅子の嫁ぎ先加島屋が大阪であったことから、当時大阪経済の中心人物であった薩摩出身の五代友厚との関係も描かれる予定だという。そのため、番組開始前の8月には、二人の功績を展示紹介する企画展がすでにスタートしている。(1)

 慶応元年(1865年)に薩摩藩が国法を無視して英国へ送り出した若き留学生たち、いわゆる薩摩スチューデントの引率役であり外交使節であったのが五代才助、後の友厚である。五代は使節として、欧州各国の視察と最新鋭の銃器と弾薬、紡績機械の購入、更に貿易商社の調印などに関わった。

 維新後、大名貸による藩の負債がほぼ消滅し大打撃を受けた大阪を復興するため、大阪商法会議所(後の大阪商工会議所)を設立。その初代会長に着任し、以後の生涯を大阪の発展のために尽くした。

 五代が現在も大阪経済界から尊敬されるのは、その貢献が決して私欲のためではなかったからだ。彼の死後、整理された書簡のほとんどが借金の申し出と返済不能に対する弁明書であった。自らの財閥をつくることもしなかった五代に残されていたものは負債だけであった。

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